内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「遊び」のない講義は遊具のない公園のようなものである ― K先生初のハードボイルド・サスペンス・ロマン『天才は忘れられた後に独り静かに死ぬ』(企画段階で没)より

2020-04-07 18:44:22 | 講義の余白から

 日本のテレビは今どうなっているのだろうか。新型コロナウイルス感染拡大と緊急事態宣言の影響でコマーシャルにも、日本の得意芸である「自粛」が広がっているのだろうか。
 普段、フランスのテレビは優れたドキュメンタリー以外は観ない。が、外出禁止令が発効する前後から最新情報を得るために観るようになった。定時のニュースや特別報道番組などを流しっぱなしにして仕事を続けている。特に気になる話題のときは仕事の手を休め、集中して聴く。いろいろな意味で、「勉強になります」と言っておこう。
 それらの番組の合間に放映されるコマーシャルが実に空しい。自粛しろとは言わない。が、現在の状況の中で、例えば、車での快適クルージングを謳う自動車会社のコマーシャルを流すのは、企業イメージとしてかえって逆効果なのではないかとさえ思う。まあ、大きなお世話だ。勝手に流せば。
 録音授業を始めて三週目になる。もう慣れた。が、気づいた。教室での授業のための準備よりかなり多くの時間がかかっている。なぜだろう。ちょっと考えた。その場の空気の流れにまかせることができないからだと思う。最初から最後まで、全部作り込まないといけない。「遊び」がないのだ。
 教室での授業では、脱線したり、学生の質問に答えたりして、教室の空気が流れる。それに助けられることもある。準備の脇が甘くても、その場でなんとかする余地がある。「流せる」時間がある。録音授業にはそれがない。
 「遊び」を入れるにしても、観客なしの「一人芝居」だ。例えば、一人で「ぼけ」と「つっこみ」を演じ分けられれば、あるいは落語のように複数の人物を巧みに表現できれば、一人芝居も活気づくだろう。が、そんな芸当はできない。
 「立て板に水」は得意とする。思い切って自己評価を甘くして言えば、「講談」型が私の基本だ。他方、「落語」型、「漫才」型、「演劇」型は苦手だ。「落語」型は憧れなのに。
 結果として、良くも悪くも(と言わせてください)、ものすごく密度の高い授業になってしまう。しかも、内容的にかなり高度な話をする。昨日は、「和」と「寛容」について批判的な議論を日本語で一時間に渡って展開した。そして、「可能な第三の原理について論ぜよ」というのが課題である(マジっすか)。今日は、フランス語で、時枝誠記の言語過程説における「主体」概念に見られる「近代の超克」の試みとその挫折という、完全に学部レベルを超えた話を一時間以上まくし立てた(誰がために?)。
 引くよね、これじゃ。来週どうしよう。