内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「非常時」だからこそ『細雪』を心静かに読みたいと思うのは贅沢でしょうか

2020-04-17 20:17:43 | 講義の余白から

 昨日の「近現代日本文学」の録音講義では、戦中、発表のあてもなく書き続けた作家たちについて話しました。特に、官憲によって「時局にふさわしくない」との理由で『細雪』の連載中止を命じられたにもかかわらず稿を書き継ぎ、自費出版の形で上巻を昭和十九年に出版した谷崎の文学者としての時代に対する姿勢についての私見を述べました。
 今日、別の意味で「時局にふさわしくない」ことを平気でする知能程度の低い首相夫人や国会議員が元気に生息している極東の島国(あっ、それは私の祖国でした。非国民の誹りは免れますまい)にも、かつては文筆をもって時代に抵抗する気概をもった作家たちがいたこと(今もそういう真にその名に値する作家たちがいるのかどうか、祖国を遠く離れた恩知らずな私は知りません)を知ってほしかったのです。
 粛々と自粛するのも結構、お上のお達しを遵守しない「非国民」たちを審問官よろしく非難する「正義の味方」的なご立派な「ゲーノージン」ならびに「ユーメージン」たちがたくさんいるのも結構、多分、日本の将来は安泰、その未来はきわめて明るいのではないでしょうか。と言った途端に思い出しました。太宰治が『右大臣実朝』で「平家ハ、アカルイ[…]アカルサハホロビノスガタデアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」と実朝に言わせていたことを。
 それら諸々の「些事」はともかく、非常時であっても、いや非常時であるからこそ、『細雪』の以下のような一節を嘆賞する感性を失いたくないと私は密かに思っております。

 あの、神門を這入つて大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を蹈み入れた所にある数株の紅枝垂、――― 海外にまでその美を謳はれてゐると云う名木の桜が、今年はどんな風であらうか、もうおそくはないであらうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくゞる迄まではあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じやうな思ひで門をくゞつた彼女達は、忽ち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放つた。此の一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、此の一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘わたつて待ちつゞけてゐたものなのである。