内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

リハーサルなしのワンテイクというスリリングな時間 ― K先生の『陽春幽閉日記』(私家版)

2020-04-02 23:59:59 | 講義の余白から

 3月23日の講義からすべて録音し、本来の時間割の開始時間前に大学の動画専用サイトにアップするようにして二週間が経った。三コマそれぞれ二時間の授業を前後半に分けて録音するので現在十二本が視聴できるようになっている。
 事前に研修を受けることもまったくなく、練習もなしにぶっつけ本番で始めて、最初はちゃんと録画できているのかさえ不確かだった。今はもうその点は心配がない。あらかじめ準備したスライドショーを机上のノート型パソコンの画面上で操作しながら話すのにも慣れてきた。しかし、なんとなく居心地が悪いのは変わらない。その理由について考えてみた。
 オンライン授業であれば、画面の向こう側にいる学生たちにリアルタイムで話しかけているわけだし、向こうも発言できるし、チャットで反応することもできる。それだけ教室での授業に近い。語学の授業の場合、インターアクティブ性は多くの場合不可欠であるから、オンライン授業の方が教育メソッドとしては録音授業より勝っている。
 私の講義の場合は、ほぼ一方的に私が話すだけだから、リアルタイムでのインターアクティブ性は必ずしも必須ではない。ただ、教室では直に学生たちの反応が伝わってくるから、それに応じて話を変えたりすることもできるが、それがまったくなく、しかも、録音中は誰も聞いてさえいないのだから、パソコンの画面に向かって話しながら、何の手応えもなく、いったい誰に向かって話しているのだろうかと宙に浮いたような妙な心持ちになる。
 録音している間、学生たちの顔を思い浮かべながら話す。教室での講義と同様、講義ノートは準備しない。パワーポイントとメモだけで話す。ただ、やはり違うのは、空気の連続性の違いとでも言えばいいだろうか。
 例えば、教室で言い間違えたとしよう。すぐに言い直して、そのまま授業を継続すればよい。それで特に流れが悪くなることもない。ところが、録音の場合、もちろんすぐに同じように訂正するが、それはこちらだけのことで、いわば自己完結してしまっている。
 本番の舞台でセリフを間違えてしまっても、それで観客との間の空気に淀みが発生せず、その場でのパフォーマンスとしての持続性が維持されていれば、その間違いは演劇空間の共有にとってさしたる問題にはならない。ところが、そのような空気の連続性がまったくない状態で、例えば観客のいない劇場の舞台で一人芝居を録画していてミスをすると、そのミスが観客との間の空気の中で融解することがないので、ミスはミスとしてこちら側だけに残ってしまう。そのミスはそれだけこちらの意識に強く作用し、以後の流れを悪くしがちだ。
 その録画を後で視聴する側にとっては、そのミスはすでに別の場所で生じたミスの記録ということになるから、やはり劇場空間のようにそのミスを現場の空気の中に融解させることができない。それだけそこが気になり、流れがそこで切れてしまうか、そこまでいかないにしても淀みが発生してしまう。
 何度も録り直せるならこの問題も解消できるが、そんな時間はない。リハーサルなしのぶっつけ本番、しかも「ワンテイク」である。なかなかスリリングな経験ではある。
 しかし「余禄」がないわけではない。大学関係者なら学生でも教員でも視聴できるようにしてあるが、各授業の登録学生数より視聴回数が多いときがある。これは同じ学生が複数回視聴しているか、あるいは登録学生以外が視聴しているということを意味するだろう。これは少し嬉しい。