内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

終末論的に今この時をこの場所で生きるということ

2020-04-20 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事に提示したような平常底だけでは歴史の中に生きる個物の境位が明らかではない。ただ日々をそれとして生きるというだけでは歴史性が欠けている。昨日引用した文の直後に「我々の自己はこの点において世界の始に触れるとともに常に終に触れているのである」とある。限りなく相対的な存在でしかない自己は、歴史の中のその他の場所と時にではなく、ほかならぬこの場所この時にしか存在しないという意味では、世界の始まりからも終りからも離れている。しかし、個物として日々平常底を生きるということは、歴史的有限性の只中にあっていかなる歴史的繋留からも自由に生きるということであるならば、個物の平常底における日々の一挙手一投足は世界の始まりと終りとを超え包んでいる。その一挙手一投足は、他の論文での西田の言葉を使えば、瞬間ごとの「永遠の今の自己限定」である。一昨日の引用箇所の言葉を使えば、「絶対現在的意識」である。それは時の始まりにおいても時の終わりにおいてもまったく同じなのであるから、この意味で、その両者に、今この時、触れている。俯瞰・鳥瞰・展望ということとはまったく違う。それらはいずれもある観点を前提とする。ある観点から観られた歴史は、生きられた歴史ではない。世界の始まりと終りに同時に触れる今を生きる生き方を西田は「終末論的」と呼ぶ。歴史が出来事の総体に過ぎないのならば、自己がかかわるのはそのごく一部に過ぎず、それらは主観の舞台上にある遠近法のもとに現れ、そのかぎりにおいて生きられるもののことでしかなく、西田はそれを単なる「自伝」に過ぎないと言う。歴史が日々端的に現実として生きられるのは「終末論的に平常底」という境位おいてであり、そこでこそ有限性の只中において個物は個物として「働く」ことができる。