内的自己対話-川の畔のささめごと

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哲学的思考の型としての日記(二)― 反省的自己意識の生成と表現の社会化としての私記の普及

2020-02-23 13:12:40 | 哲学

 フランス語に « for » という古語がある。ラテン語の « forum » に由来し、もともとは家の周囲の囲われた広場をおそらく意味していた。そこから公共の広場や市場をも指すようになった。私事あるいは公事がそこで議論される場所のことである。さらにそのような場所で成立する「合意,協約,協定,契約」を意味するようにもなった。今日ではもはや単独で一般名詞として使われることはなく、「裁判権」を意味する言葉として « for intérieur [interne] »(良心の裁き)、« for extérieur [externe] »(法廷による裁き)、« for ecclésiastique »(教会の世俗裁判権)などの表現にその名残をとどめている。あるいは、「心の奥底で、ひそかに」という意味の成句 « dans [en] son for intérieur » が文章語として使われているのを見かけるくらいである。
 1986年に発表された « L’Écriture du for privé » という論文で Madeleine Foisil は « écriture du for privé » という表現をイタリア・ルネッサンスからフランスの啓蒙の世紀(十八世紀)にかけて書かれた私的文書全般を指す範疇概念として提唱した(In Histoire de la vie privée, tome 3, De la Renaissances aux Lumières, Seuil)。 この « for privé » という概念は « for public » に対立し、国家の監視・介入を受けつけない私的領域を指す。
 この領域内での所記行為とその結果として産出されるすべてのテキストが « écriture du for privé » と総称される。多種多様な文書がこの範疇に属する。それとして自覚的に書かれた回想録と自伝を別にすれば、それぞれの文書は単一の特性を有しているとはかぎらない。小教区の台帳、市の年報、会計簿、過去の同じ日に起こったことを記す暦などからその所記形式を借り、そこにさらに書き手の個人的考察が付け加わっていく。記述される出来事とそれに割かれた行数の多少が書き手の関心の所在と程度を示している。
 これらの文書のもともとの目的は、一族に関わる様々な出来事や決定の記録を残すことで次世代以降に一族内で争いが起こらないようにすることである。だから、私的な感想を吐露することはその目的ではなかった。そもそもそうすることは当初非常識で無作法なことと見なされていた。
 ところが、十七世紀末から所記内容が徐々に変化していく。特に、書き手がその晩年に至ると回顧的に自分の人生を成功譚として「再構成」する記述が現れてくる。しかも、それは神の加護によるものではない書き手自身の決意と行動による「英雄叙事詩」の様相を呈する。末永く繁栄する「私たち一族」の歴史が後景に退き、さまざまな困難に打ち克って現在の地位を築いた「私」の歴史が次第に前面に出て来る。しかし、十八世紀半ば頃まではまだ個人的感情の吐露は見られない。
 十八世紀後半になって私的文書に書き手個人の内面の表現が見られるようになる。この現象は自伝の普及の付帯現象である。しかし、自伝を書くのはそれが他者によって読まれることを期待できるような「名士」たちに限られるのに対して、もともと家族内での回読に限定されていた私的文書が内面の表現の器になっていったことは、反省的自己意識の生成と表現が社会的に一般化していったことを意味している。