内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

学生たちの質問に教えられる

2020-02-07 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の正午から午後二時まで、後期最初の「研究入門」の授業を担当した。
 拙ブログで以前に触れたことだが、この授業は学部二年生向けの必修科目で、前後期それぞれ三回行われ、各回学科の専任教員が回り持ちで担当し、自分の研究分野について学生たちにその「イニシエーション」を行うというのが趣旨である。
 学科の専任教員は私を含めて五人いるのだが、そのうち二人が後期授業をサヴァティカル等の理由で外れているので、残りの三人で六回埋めなくてはならない。しかし、それではヴァライティに欠けるということもあり、前期の一回を美術史が専門の契約講師にお願いした。
 後期担当三人の専門分野は、それぞれ思想史、社会言語学、歴史社会学である。研究入門とはいっても相手は学部二年生であるから、高度に専門的な話や込み入った議論はできない。とはいえ、思想史となると、どうしても概念的な話になりがちだ。それはある程度は仕方ないと思うが、学生たちの今後の勉強に少しでも役に立つような話を心掛けたつもりではある。
 しかし、今日の授業はあまりうまくいかなかった。内容を詰め込み過ぎで、準備した分の半分も話せなかった。後期は、同じ二年生を対象とした近現代文学の授業も担当しているので、その内容とリンクさせようとの配慮から、前半は、古代から現代文学までを通観するための文学史的視角をどう構築するかという話を小西甚一の『日本文学史』の「序説」に依拠しながら話したのだが、話のスケールが大きすぎ、かつかなり哲学的な部分もあり、多くの学生たちはついていけないと顔を見合わせていた。それでも、三十人程度の出席者のうち数人には訴えるものがあったのではないかと思う。
 講義の後、最も優秀な女子学生の一人が質問に来た。永遠への憧れがもつ二つの極である「完成」と「無限」についての質問だったが、こちらの答えに納得しているようであった。彼女は授業中もときどきうなずきながら聴いてくれていたのだが、質問内容からして、かなりよく講義内容を理解してくれていると推測できた。
 男子学生も一人、講義後に質問に来た。彼は、近現代文学の授業でも毎回授業中あるいは授業後に質問してくれる。それらの質問内容からわかるのは、私の話を聴いて自分で問題を考えようとしていることだ。今日の質問は、私が授業の後半でした「なつかしさ」 « nostalgie » « Sehnsucht » の意味論的区別の話についてだった。プルーストの『失われた時を求めて』はこのいずれにも還元できないものではないか、というのがその質問の主旨であったが、これにはこちらが唸らされた。プルーストがその文学的表現において探求したのは、この三つの契機の総合と見ることもできるのではないかというのが私の回答だったが、もちろんこれはその場の思いつきの域をでない。むしろこの学生の質問によって新たな課題を与えられたと感謝している。