内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歴史的事実の絶対化は、歴史の死に他ならない

2019-09-14 19:01:45 | 講義の余白から

 世阿弥の『花鏡』からの一節について、昨日の記事で略述したようなことを授業で話してから、再び二十世紀のフランスに立ち戻った。ポール・ヴァレリーが1932年に高校生を前に行った講演「歴史について」(« Discours de l’histoire prononcé à la distribution solennelle des prix du lycée Janson-de-Sailly »)からの抜粋を読ませつつ、「歴史的事実」とは何かという問題について考えさせた。
 ヴァレリーは、歴史は起こった事実の集積であるという、素朴実在論にも似た歴史主義を批判する。書かれた歴史は、すべて何らかの基準による重要度に基づいて、選択された結果として語られている。実際に生じた無数の事実そのものに意味があるのではなく、その中から語られるために選択された結果として、ある特定の事実が意味を帯びるようになる。最初から決められた意味があるわけでないのだ。だからこそ、いわゆる歴史的事実は無数の解釈を許す。
 私たちが歴史に魅惑されるのはなぜか。それは、ある時ある場所で起こったことが、それはもしかしたらまったく違った展開になっていたかもしれないのに、そうなったから、つまり、現実の展開が因果の法則によっては説明できないからではないのか。歴史上のそれぞれの瞬間について、現実に生じたのとは異なった次の瞬間を私たちは想像してみることができる。
 一切の想像を排除した、実際に生じたことだけからなる「純粋な」歴史には、実のところ、意味はない。にもかかわらず、「これは事実だ」と人が言うとき、それは、「そう信じろ」と強制しているに過ぎない。いかなる人為も介さない「ありのままの」事実の前に拝跪せよ、と命令しているのだ。しかし、それは、批判的理性を行使することをやめろ、歴史的想像力を働かせるな、と言っているに等しい。
 歴史的事実の絶対化は、歴史の死に他ならない。