バタイユの『至高性』の中の、ある奇跡的な要素が含まれたものとしての「一杯のワイン」についての一節に行き当たるまでの読書のプロセスを、ちょっとまわりくどいが、備忘録的に記しておく。
加藤典洋は、『人類が永遠に続くのではないとしたら』の中で、福島原発事故からの一年半の思索がその意義を再認識させた本として、見田宗介の『現代社会の理論 ― 情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波新書、1996年)を挙げ、その意義を詳説している。
加藤も上掲書で引用しているように、『現代社会の理論』には、ジョルジュ・バタイユが、「〈消費〉のコンセプトの最も徹底した、非妥協的な追求者」として、イヴァン・イリイチのような「歓びに充ちた節制と解放する禁欲」を主張する思想家に真っ向から対立する思想家として登場する。
バタイユは、〈消費〉の観念の徹底化として、「至高性 la souveraineté」というコンセプトに到達する。至高性とは、〈あらゆる効用と有用性の彼方にある自由の領域〉であり、「他の何ものの手段でもなく、それ自体として直接に充溢であり歓びであるような領域」である。
見田自身は、「一杯のワイン」がそれを飲む労働者に与える「奇跡的な感覚」についてバタイユが語っている箇所を引いてはいない。その直後に出てくる、「ある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝き」だけをバタイユが挙げる「至高の生」の一例として引いている(手元にある Œuvres complètes, vol. VIII, Gallimard, 1976, p. 249 の原文は、 « l’éclat du soleil, qui, par une matinée de printemps, transfigure une rue misérable » となっており、見田と加藤が引用している湯浅博雄訳(人文書院、1990年)にある「不思議に」「燦然たる」に対応する語がない)。
加藤は、同じ箇所に言及しながらもっと長く『至高性』から引用している。その引用の直前に加藤はこう書いている。
バタイユによれば、労働者はその得た賃金でワインを一杯飲むが、それは「元気や体力を回復するため」でもあろうけれど、同時に、そうした「必要に迫られた不可避性」を「逃れようとする希望」をこめてのことでもある。そこには「ある種の味わいという要素」、「ある奇跡的な要素」が混入している。そこに現れるのが、至高性である。(加藤書、79頁)
見田は、朝の太陽の輝きの方が最も奢侈でぜいたくな〈消費〉の極限例としてより典型的と考え、「一杯のワイン」の方は引かなかったのであろうか。確かに、たとえ一杯であれ、それは無償ではないし、それを飲むのは、労働者のささやかな欲望が起動因になっているのに対して、朝の太陽の輝きが世界にもたらす美の経験の歓びは、完全に無償なものとして誰にでも到来しうる。
[バタイユは]、他の何ものの手段でもなく、測られず換算されない生の直接的な歓びの一つの極限のかたちをみている。けれども、この生の「奇跡的な要素」、「われわれの心をうっとりとさせる要素」は、どんな大仕掛な快楽や幸福の装置も必要としないものであり、どんな自然や他者からの収奪も解体も必要とすることのないものである。(見田宗介『現代社会の理論』電子書籍版)
今この記事を書きながら、書斎の窓越しに、雨に打たれて震える樹々の緑を見ている。その美しさを無償で享受できることの歓びを上記の読書経験が深めてくれている。今晩飲むワインも、いつもより美味しいことだろう。