内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣にとりもどすこと」― 見田宗介『気流の鳴る音』から

2019-09-09 20:12:37 | 読游摘録

 竹内整一の著作は、授業でときどき参照する。手元に紙の本として持っているのは、『ありてなければ 「無常」の日本精神史』(角川ソフィア文庫、2015年)と『日本思想の言葉 神、人、命、魂』(角川選書、2016年)の二冊。電子書籍版では、『花びらは散る 花は散らない 無常の日本思想』(角川選書、2014年)と『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書、2014年。紙の版は2009年)の二冊。
 これら四冊の本で必ず引用されているのが見田宗介の著作である。引用の前後の竹内自身の文章も含めて、ほぼそのまま使い回されていることも少なくない。そのような引用のされ方をしている一節があるのは、『気流の鳴る音』(初版、筑摩書房、1977年。ちくま学芸文庫版、2003年、それを改変した電子書籍版が2018年)である。以下のまったく同じ箇所が上掲四冊のいずれの本にも引用されている。

 われわれの行為や関係の意味というものを、その結果として手に入れる「成果」のみからみていくかぎり、人生と人類の全歴史との帰結は死であり、宇宙の永劫の暗闇のうちに白々と照りはえるいくつかの星の軌道を、せいぜい攪乱しうるにすぎない。いっさいの宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、このような認識の透徹そのもののかなたにしかない。
 すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣にとりもどすことにしかない。

 9月6日の記事で引用したレヴィ=ストロースの『裸の人』の結語に見られるのは、まさにここで言われている認識の透徹である。ニヒリズムを超克しうるそのような透徹からはほど遠い身としては、「今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣にとりもどすこと」もままならず、目の前の仕事に追われているうちに一日が終わってしまうことが多いが、そのような日常の中にあっても、いとおしさへの感覚をいくばくかでもとりもどそうと心がけることはできるだろう。