内的自己対話-川の畔のささめごと

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「魂の経済」 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(五)

2014-12-17 21:41:15 | 哲学

 マタイ福音書の「己が部屋にいり」を聖書の他の箇所と整合的に解釈するために、その「己が部屋」を心という「内的部屋」だとする解釈が、ラテン教父たち ― 例えば、四世紀のポワティエのヒラリウスやアウグスティヌスに洗礼を授けたミラノのアンブロジウスなど ― によって、一般化されていった。
 しかしラテン教父たちに先立って、この心と部屋とを同一化する表象はすでにギリシア教父たちによって用いられ始めていた。例えば、二世紀半ばに生まれたとされるアレクサンドリアのクレメンスにおいては、次のような仕方によってである。

主が私たちにそうするように説いたとおり、汝は己の部屋に身を引いて心のうちで神を讃えつつ祈るのであれば、もはやただ家の良き秩序に気を配るだけでなく、魂の良き秩序についても気を配れ。

 この引用は、クレティアンの本に引用された仏訳(前掲書三十三頁)からの重訳であるから、ギリシア語原文に対する忠実性については保証の限りではないが、ここで注目したいのは、その仏訳の中の「良き秩序(bon ordre)」の後ろに括弧に入れて示された « oikonomia » という原語と、それについての注解である。
 このギリシア語は、エコノミー(économie)の語源であるが、「家」を意味する « oikos » と 「法、行政」を意味する « nomos » との合成語で、もともと「家のことを司ること、およびそのための取り決め」を意味していた。つまり「経済」とは、語源的には「家政」のことなのである。
 したがって、「魂の oikonomia」とは、魂の司りということで、アレクサンドリアのクレメンスは、ここで、物質的なものの司りから精神の司りへと、家族から唯独りの人へとトピックを移行させているということになる。
 では、「魂の経済」とは、より具体的には、どのようなことなのか。それは、魂が何を獲得し、保存し、配分するのか、何を受け入れずに外に残したままにするかを決めることであり、魂の内部と外部との交渉をいかに取り行い、両者間の取り決めをいかに決定するかがそこでの問題なのだ。つまり、己の魂を司ることとして「魂の経済」は、魂の内部に引きこもって外部との関係を遮断することではなく、まったく逆に、いかに外部と交渉し、内部をそれとして確保し、経営していくかということを考える、魂への配慮とそのために必要とされる技術のことなのである。

(追記 この記事は、今日の午後五時前に着いた東京の実家で書いた。)