内的自己対話-川の畔のささめごと

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アメリカ・プロテスタンティズムにおける社会順応主義批判の淵源の一つ ― トクヴィルからエマーソンへ

2014-12-08 12:41:14 | 随想

 トクヴィル自身はノルマンディー地方の由緒ある貴族の生まれで、フランス革命時に一族の主だった人々は処刑されてしまった。革命の十六年後に生まれたトクヴィルは、自分が没落階級に属していることをはっきりと自覚しつつも、その階級にこそ見られる高貴な個人主義を家族内でまだ肌身に感じることができた。そのような家庭の空気は、決定的に失われつつある「今ここにはなきもの」への癒しがたい思慕の情をトクヴィルの心に疼かせたであろう。しかし、他方では、その「今ここにはなきもの」の自覚が、台頭しつつある新興階級への強い関心をトクヴィルに引き起こし、それがトクヴィルを生まれつつある新しい民主社会の注意深い観察者にしていく。
 トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は、言うまでもなく、政治思想史の分野における不朽の名著だが、そこには実地に見聞した一八三〇年代はじめのアメリカ社会における自由と平等を追求する民主主義の生き生きとした記述が見られるとともに、そこに潜む大衆社会の危険、世論の暴君性をいち早く見抜く卓越した慧眼が煌めく。その洞察は、今日においても、いや今日においてこそ、ますますその輝きを増している。前任校の修士の演習では何度か同書に言及し、学生たちに是非読むように何度も薦めたものである。
 以下、昨日紹介したリュシアン・ジョーム(Lucien Jaume)のトクヴィル伝に基づいて、トクヴィルがアメリカのプロテスタンティズムの中に見たもの、そして見るに至らなかったものを追ってみる。
 トクヴィルは、十ヶ月間のアメリカ滞在中(一八三一年四月から一八三二年二月)に、ユニタリアン派の大説教師チャニング(Channing)と意見交換する機会があった。その時のやりとりの大筋ををトクヴィルは手帳に書き留めている。
 権威への個人の絶対的服従を求めるカトリシズムを批判し、個々人の価値と自由を認める民主主義を宗教に導入したプロテスタンティズムを代表する大説教師チャニングに対して、「個人は、社会において、自分固有の意見を形成する暇も嗜好も、さらにはその勇気もない。だから、ドグマが必要なのであり、そのドクマを権威と教化によって信頼性のあるものとする制度が必要なのである」とトクヴィルは反論する。
 それに対してチャニングは、以下のように応える。「信仰においては、個人は自由であり得る。なぜなら、神との対話は直接的に可能だからだ。ところが、政治的な問題に関しては、大衆は、経済アナリストのような専門家に比べれば、無知であり、したがって、能力ある権威として認められえない」(L. Jaume, op. cit., p. 195)。
 このようなチャニングの立場からすれば、信仰における個人の自由と政治における大衆の権威への従属とは矛盾しない。
 しかし、当時のアメリカのプロテスタンティズムには、もっと遠くまで集団順応主義批判を徹底化した思想家たちがいた。それは、トクヴィルが当時知る機会がなかったと思われる「超越主義」と呼ばれる哲学的運動の主導者たちであり、その先導者が、三代続いた牧師の家庭に生まれ、自身ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、最初は牧師としても活動した哲学者ラルフ・ワルド・エマーソンである。
 もしトクヴィルがこの「超越主義哲学」の運動を知る機会があったとすれば、アメリカのプロテスタンティズムに見られる徹底した集団主義・順応主義拒否の淵源についての自身の見解の確証を得ることができただろうとジョームはいう。
 ここで言う「集団主義」とは、ある集団を一つの〈体〉とみなし、その〈体〉がそれに帰依する個々人より以上のことを知っているとする、個人を集団の下位に置く考え方のことである。