内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「今ここになきものへの思慕」 ― エマーソン、トクヴィル、ネルヴァルを読みながら

2014-12-07 19:18:20 | 随想

 十九世紀前半のフランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)の優れた知的伝記(biographie intellectuelle)である Lucien Jaume, Tocqueville. Les sources aristocratiques de la liberté, Fayard, 2008 には、トクヴィルの同時代のアメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)と同じく同時代人であるフランスの作家・詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)とに言及している箇所がそれぞれ一箇所ずつある。それら二箇所は、互いに遠く離れており、文脈としては直接の関係はないのだが、それらの箇所を読みながら、それぞれに資質を異にし、かつ十九世紀前半の欧米の精神史にそれぞれに特異な位置を占めるこれらの精神に見られる共通の志向性は何なのであろうかとふと考えた。
 それは、一言で言うと、「今ここにはないものへの思慕」とでもなろうか。ただ、それは二重の意味においてである。つまり、それは、まず、具体的に何か今ここにはないものをそれぞれに懐かしむということでもあるが、それと同時に、否、それ以上に、「今ここにはない」という仕方でしか経験し得ないものへの止みがたい思慕の情ということである。そのような情は、人間にとっての基礎的感情の一つであると思われる。
 彼らの思想のすべてがそこに集約されるとか収斂するとか乱暴なことが言いたいのではないのだが、かといって、彼らの思想精神をただロマン主義的傾向という視野で見るもの大雑把すぎ、何かもっと三者を繋ぐ共通の精神性のようなものを把握したいという想いがある。
 そのような想いは、しかし、なんら研究的な態度に由来するものではないし、関連するいずれの分野においてもただの素人に過ぎないわけだから、そもそも彼らを研究しようというつもりもない。むしろ、これら三つの異なった、しかし十九世紀前半という同時代を生きた精神のいずれにも何故か惹きつけられてしまう自分自身を、彼らのテキストを読むことで、もっとよく理解したいというのが本当の願いである。
 明日から三回に分けて、このテーマで記事を書き継いでいきたいと思っているが、何か予めプランがあってそれにしたがって書くわけではないので、書きながら、思わぬ方向に話が逸れていくかもしれないが、それはそれでまた一つの「自己発見」であるかもしれない。