内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

世阿弥『花鏡』における「初心不可忘」論(二)― 時々の初心

2014-12-05 13:21:49 | 読游摘録

 『花鏡』結論部分に「万能一徳の一句」として示される「初心不可忘」の第二の下位テーゼは、「時々の初心を忘るべからず」である。

時々の初心を忘るべからずとは、これは、初心より年盛りの頃、老後に至るまで、その時分時分の芸曲の、似合ひたる風体を嗜みしは、時々の初心なり。されば、その時々の風儀を為捨て為捨て忘るれば、今の当体の風儀をならでは見に持たず。過ぎし方の一体一体を、今、当芸に、皆一能曲に持てば、十体にわたりで能数尽きず。その時々にありし風体は、時々の初心なり。それを当芸に一度に持つは、時々の初心を忘れぬにてはなしや。さてこそ、わたりたる為手にてはあるべけれ。しかれば時々の初心を忘るべからず。

 ここで言われる「初心」とは、芸道に入って間もない時期から、壮年期を経て、老年に至るまで、その時々の身体的条件その他の条件に適った芸態を身につけることを指す。もし、その都度、ただその場かぎりで演ずるだけで、それを捨て忘れるようでは、その時の年齢にあてはまる芸態でしか演ずることができない。ところが、それぞれの時に身につけた芸態を忘れずに、現在の芸において一連のヴァリエーションとして演ずることができれば、芸態は無尽蔵となる。
 この時々の初心についての世阿弥の芸能論を生きられる時間性の観点から見てみると、次のように言えるだろうか。
 ただその時その時の芸態を継起的に身につけるだけで、その時その時の初心に立ち戻らずに、少年・青年・壮年・老年と移りゆくことは、いわば同一線上を一方向的に移行していくだけの有限の不可逆的線形的時間性を生きているのに過ぎないのに対して、いつでも時々の初心に立ち戻り、その都度の「はじまり」を生き直すことができるようになることは、いわばその都度の〈現在〉を共通の接点として他の時々の初心をその対蹠点とした多重内接円として表象化できるような無限の多重円環的時間性を生きることである。
 強引な我田引水であることを承知の上で、この時々の初心の時間論を私がそこで諸々の問題を考えようとしている哲学的領野へと引き摺り込めば、以下のようになる。
 現象的時間内有限存在であるかぎりは、誰であれ、線形的時間性を誕生から死へと不可逆的に進んでいくほかはないとしても、時々の初心を忘れず、そこへいつでも立ち戻ることができる心身の「可塑性」を身につけるとき、そこに円環的時間性が生きられるようになり、線形的時間性に対する「垂直的脱自」の可能性の条件が与えられる。線形的時間性を生きつつ、その中で立ち返りうる時々の初心が積み重なれば積み重なるほど、円環的時間性は多重化し、「現在」は、過ぎ去る瞬間としてではなく、生命の無尽の豊穣さが湧き出る「場所」として再び見出される。