内的自己対話-川の畔のささめごと

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「心の部屋(cubiculum cordis)」― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(二)

2014-12-14 12:27:25 | 哲学

 初期キリスト教会の教父たちがラテン語で « cubiculum cordis »(心の部屋)と名づける表象は、精神的内在性に関する空間表象として、西洋思想史において最も重要で最も持続性がある表象であるとジャン=ルイ・クレティアンは言う(J.=L. Chrétien, L’espace intérieur, op. cit., p. 29)。
 古代・中世を通じて、多数のキリスト教著作家たちによって用いられたこの「心の部屋」という空間表象は、近代に入ると、第一義的な宗教的次元から離脱させられ、「世俗的」な精神の部屋という意味に変換される。それは十九世紀の作家たちにまで見出すことができる。
 西洋思想史においてかくも持続的に用いられてきたこの〈部屋〉という表象は、人間精神の枠組みを規定してきたわけだが、それに応じて、人間の行動に関する命令と禁止を方向づけ、その日常生活に一連の規則を与えてもきた。
 この「部屋」を、クレティアンは同書の中で « topique » と名づける。アリストテレスを念頭に置いての用語だが、さしあたり、ある一定の事柄が一定の仕方で実行される「場所」と見なすことができるだろう。しかし、この「場所」は、それ自体において第一次的なものと考えられていて、通常の意味で「部屋」を考えるときに想定されるような「住居」は考慮の外に置かれている。つまり、古代から中世にかけてラテン語において « cubiculum cordis » と言われるとき、それは外からいきなり入る場所のことなのである。
 ここでの「心」とは、キリスト教的な意味でのそれであり、人間の人格的同一性、人間の存在の核であり、知性と意志を含むが、いわゆる様々な世俗的感情は含まれない。しかし、そのことは、外部からの刺激に応じて情意・情動(affects)が「心」に発生することを排除するものではない。
 この「心の部屋」には、もちろん「扉」があり、ときには「窓」もある。しかし、そこに「家具類」はない。ただし、場合によっては「寝床」だけはある。実際、ラテン語の « cubiculum » という言葉は、「寝室」を意味する。
 この「部屋」は、したがって、内密な場所であり、自分自身へと引きこもり、外部や社会的関係からは身を引くときの在処である。しかし、この「部屋」にあって、私は独りきりなのではない。なぜなら、まさにこの「部屋」こそ、私において神が現前する場所であり、そこで私は神と出逢い、神と言葉を交わす。
 「心の部屋」が神学・哲学的に重要性を有つのは、この意味においてなのである。人間の最も奥深い内部が真理の場所でありうるのは、それが出逢いの場所であり、私がそこで神の前に神と共にある場所であり、私が神の言葉を聴き、神に語りかける場所だからである。
 つまり、今日的な哲学的言語(というとき、クレティアンがレヴィナスを念頭に置いていることは明らかである)に従えば、同一性とは、そこに最も生き生きとした他者性が絶えず到来する場所であり、このことこそが「心の部屋」を近代哲学の「主観性」から区別している。私の中心は脱中心化されており、私の内在性は(〈他者〉に)住まわれている。そのことが、私の内在性をそれとして在らしめ、それとして基礎づけている。