内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「憂しと見つつもながらふるかな」― 紫式部晩年の憂愁透見受容の境地

2014-12-01 17:40:23 | 読游摘録

 紫式部の生涯について知られていることは僅かであるとはいえ、それらの断片的情報を辿り直しつつ、式部の生涯を想うとき、その生涯が憂愁の色に染められているのも無理からぬことと思わないではいられない。その憂愁をどう生き、見つめ、受け入れるのか ― この問いが紫式部の生涯と作品世界とに通奏低音のように響いているように私には思われる。
 祖先は、曽祖父の代までは公卿として繁栄し、かつ歌人としても名を成したが、祖父の雅正は生涯受領止まり、従五位下に終わった。父為時も官人としては同様。ただ文人としては才ある人だったようである。総じて、文化人としては優れた教養の持ち主たちが式部を囲んでいたと言えるだろう。曽祖父の代までの栄光は、式部の胸に自家に対する誇りを抱かせたであろうが、それだけに祖父の代からの零落は口惜しく、身に沁みるものがあったと想像する。
 母親については、式部の幼少期を知ることができる数少ない資料である『紫式部日記』にも自撰家集『紫式部集』にもまったくその記述が見られないことから、式部幼少期に世を去ったか、離別したものとされている。同母姉がいたが、『紫式部集』によると、式部の娘時代に亡くなっている。この二つの別離が式部の生涯に影を落とさなかったはずはなかろう。
 娘時代からきわめて聡明だったようで、弟が漢籍の素読を習っているのを脇で聞いていて、先にすっかり暗唱してしまったと『日記』にある。それを見た父の為時をして、「お前が男子でないのが私の不運だ」と言わしめている。女性に漢籍の素養があっても、何の役にも立たないどころか、かえって嫁入りの妨げにさえなりかねないと考えられていた時代である。男子と比べても飛び抜けた学識を身につけてしまった式部は、なおのことその学識の「無用さ」を自覚せざるを得なかったであろうから、女に生まれたことの不幸を感じたでもあろうか。
 式部の年齢は推定でしかないから、確たることは言えないが、結婚は二十代半ば。夫は二十歳ほど年上の藤原宣孝。快活で如才ない人であったようである。式部は、しかし、本妻ではなかった。妾の一人で、妻問婚の形であった。二人の間には一粒種の娘が生まれたが、その前後より、式部は夫の「夜離れ」に苦しむ。しかも結婚生活そのものも夫の死とともに、わずか三年ほどで終りを告げる。幼い娘を独りかかえ、将来に不安を抱いたまま、喪失感から抜け出せずに数年を過ごしたようである。
 『紫式部集』に収められた和歌の調子は、夫の死を境に一変する。憂き世を嘆き、命の儚さを詠む。

消えぬまの身をも知る知る朝顔の露とあらそふ世を嘆くかな

 しかし、この世を憂しと思いつつも、母親として娘の健やかな成長を祈らずにはいられない。

若竹のおひゆくすゑを祈るかなこの世をうしといとふものから

 そのような出口の見つからない苦悩の渦中にあるとき、親しい友人たちのおかげもあり、物語の世界に触れ、心が癒やされるのを感じ、自ら筆を染めるようになっていく。自らの裡に娘時代からずっと蓄えられてきた文学的想像力が一気に開花していくのを自分でも感じたことであろう。かくして『源氏物語』の一部が生まれる。
 おそらく最初は身近な友人たちの間で回覧されたのだろうが、たちどころに評判になり、それが藤原道長の耳にも入り、折から娘中宮彰子の後宮の梃子入れ策を考えていたこともあり、あるいはその妻倫子の要請でもあったか、後宮女房として抜擢される。
 しかし、式部は後宮女房たちから歓迎されたわけではない。それどころか今までにない才女タイプとして古参の女房たちからは警戒され、挨拶の和歌を送っても無視されるなど、いわゆる虐めに遭う。これには式部の非社交的で内向的な性格も災いしたことは明らかである。出仕して間もなく、自宅に戻ってしまい、いわば「出社拒否」、そのまま五ヶ月近く「引きこもり」状態であったらしい。
 それでも何とか再出仕するようになり、次第に女房生活にも順応し、仲の良い同僚もでき、中宮彰子後宮女房として成長していく。その中で『源氏物語』を書き継いでいった。それでも、女房としての公生活の中で、憂愁がすっかり晴れることは決してなかった。
 しかし、式部はただ憂愁をかこっていたのではない。出仕を終えて隠棲する晩年の式部の和歌には、この憂き世を透徹した眼差しで見つめ、そこから仏道に参入することもなく、静かにその憂き世をその行く末がわからぬままにそれとして受け入れる姿勢が見事に表現されている。

ふればかく憂さのみまさる世を知らで荒れたる庭に積もる白雪

 生き続ければ、憂きことのみ積み重なるこの世。それはそう。でも、手入れもされず荒れている我が家の庭には、そんなこととはまったく無関係に、純白の初雪が音もなく降り積もっていきます。

いづくとも身をやる方の知られねば憂しと見つつもながらふるかな

 この世に漂うこの身をどこにもっていけばいいのかもわかりません。だから、この憂き世をそれとして見ながら、生きながらえているのです。
 このように憂き世に生きる我が憂き身をそれとして受け入れている式部において生きられているのは、「根源的受容性」でなくて何であろうか。