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正義へのニヒリズムと、信仰と。

2020年10月17日 12時27分46秒 | 政治
「正義」を希求することに対して、
シニカルに捉えたり、ニヒルに捉えたりするのが格好いい、という感覚が
横行しているように感じる。

曰く、「正しいことなんか何もない、数が正義だ」「いい子ぶるな」
「タテマエでなく、ホンネが大事だ」…。

露悪的なだけなのかも知れないが、どうも「正義」「正しさ」を追い求めるのは
青臭い、カッコつけてる、恥ずかしい、といった感じ。
戦後の民主主義や啓蒙思想に対するアンチテーゼなのかも知れない。

そのくせ、一度「これが正義だ」と決まったこと、決めたことについては、無反省に、
他者に対して押し付ける。
自分で「正義だ」と決定したことを根拠として行動する。
クレームの電話を入れまくる、ネットで叩きまくる。
そこには、「自分の行動は適切なのか?」という自省はなく、
「正義だと決定したから、正義だ」という信仰になっている。

この「正義を希求する」ことに対するニヒリズムと、
いったん決めた自己の「正義」に対する信仰と。
「正義」をさして重要なものでないと感じるか、己の言動のベースとする程の重きを置くか。
本来ならば相対立するはずの二つの感覚が共存している。

それは、或いは「自己に対する自信のなさ」と「自信がないから、周囲に対して虚勢を張って見せる」の
二面性と通底するのかも知れない。
自分の(いったん打ち立てた)「正義」に自信があるからこそ、
逆に自分自身の言動や判断を疑い、「より正義」を希求できる。
自信がないから正義だと(自分自身に対しても)信じ込み、反撃に耐えるためにこちらから先制攻撃する。

でも、正義を希求し、疑い続けるのは「しんどい」し「面倒くさい」。
「何が正しいか?」「本当に正しいのか?」と考えるのはエネルギーが要るし、
流れに逆らうよりも乗っかった方が楽。

でも、安きに流れるのは「正しい」ことなのか?
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