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「多数=正しい」ではない

2020年10月05日 06時27分06秒 | 政治
維新などを中心に、「多数だから正しい」的な発想が見られる。
例えば、「気に入らなければ、自分たちが多数を獲れば良い」といった言説。
しかし、「多数」というのは「正しさ」を推定する一つの観点ではあるが、
それが絶対に正しい、という訳ではない。

極端な例を考えてみる。
アーリア人が8割、ユダヤ人が2割で、
アーリア人が「ユダヤ人は虐殺しても良い」と考え、
8割の多数をもって決定し、ユダヤ人を虐殺する。
これは正しいのか?
「多数だから正しい」の極限は、こういう話。

もちろん、これは「正しくない」と感じる人が(維新も含めて)「多数」だろう。
ではここで、「虐殺しても良い」は正しくないとして、
「どこまでだったら」或いは「どのような手続を踏めば」
「少数者に不利益を甘受させることが正しいのか?」を考える必要が出てくる。

そこで出てくるのが、例えば
本人の存在や安全に関わる部分は、多数決によっても侵害してはならないが、
経済的利益に関する部分については侵害しても良い。
但し、手続的に単に「多数決でOK」ではなく、
少数者の意見を十分に聴取しなければならない、
といった話。
もちろん、これも常にOKという話ではなく、
例えば代替可能な手段はないか?といったチェックは必要になってくるだろうし、
どこまでが「存在や安全に関わる部分」か?といった議論は出てくる。
# 他にも、「将来」の決定をするのに「現在」の人間の多数で決定しても良いのか、といった
 課題は存在するだろう。

いずれにせよ、
単に「多数=正しい」という価値観は危険過ぎる。
「多数」であることは「正しい」ことを原理的に意味するものではない。
あくまでも「多数」は便宜上、「正しさ」を推定するものに過ぎず、
本当に正しいか、は常に模索する必要がある。

ごく当たり前の話なのだが、改めて。
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