朝寝-昼酒-夜遊

日々感じたことを思いのままに書き散らすのみ。
※毎週土曜更新を目標にしています。

八月納涼大歌舞伎~真景累ヶ淵~

2009年08月09日 21時16分11秒 | 歌舞伎・文楽
今日は歌舞伎座へ行ってきた。

第二部「真景累ヶ淵~豊志賀の死」。
落語でも馴染みの深いところで、
その比較でいろいろ感じながら見ていた。

豊志賀が既に臥せっている場面から始まる。
この発端は落語に比べていまいち。
豊志賀の病気は新吉への嫉妬が元で「ぽつり」と腫物ができ、
その気持ちが大きくなるに連れて腫物も大きくなる、といった
「身の因果」だと思うのだが、
病気の場面からだと、そのような背景が伝わりづらい。

福助の豊志賀。
やけに笑う客が多く、
別に笑わそうとしている訳でもない
豊志賀の科白でもウケがきていた。
女形の発声に慣れていないせいかも知れないが。

新吉は勘太郎。
勘三郎とよく似た声質。
全体に、特に可もなく不可もなく、という感じ。

新吉の伯父の家の場面。
伯父が新吉が「深見新左衛門という旗本の息子」だと明かすのだが、
その因縁話をすると複雑になるので、
「豊志賀の死」だけを演るのであれば
特に要らないと思う。
後で豊志賀が宗悦の娘で、といったバラシをするならともかく。

この場面では歌舞伎らしく、豊志賀の幽霊を出したりしているが、
全体に、どうも安っぽい「怖いお話」程度になっていると感じた。
それは、奥深い「因縁」や「ドロドロした感情」が
落語ほど濃密に描写されていないからだと思う。
例えば見舞に来たお久に対して、
豊志賀が意地の悪いことを言う場面にしても、
「嫉妬」をベースにじわじわ迫っていく感じが弱い。
このあたりは、
見る側にどんどんエスカレートして想像させられる
落語の方が強いだろう。

目に見える形で幽霊を出し、怖がらせる歌舞伎の方が、
分かりやすく、ある意味では現代に合っているのかも知れない。
ただ、少なくとも今日の芝居では、
圓朝の怪談のベースになっている
人間の感情の奥深さや、人間の恐ろしさといった面の表現で
落語に及ばない、と感じた。

次の「船弁慶」は見ずに出て、
山野楽器で久々にCDを買い、
大阪へ戻るために使う指定席券を買って、帰宅。
コメント
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