考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

国語も数学も英語も理科も社会も皆同じ

2011年02月11日 | 教育
 何を勉強したら数学が出来るようになるかとか、英語が出来るようになるかとか、社会はどうだとか、教科別の学習法に関心を持つ人は多い。これとこれを覚えると良い、この例題は必須だ、この表現を覚える、解法を覚える、身につける、と言った具体的な勉強こそが勉強だと思われている。学校の授業も基本的にはこうした事項を教えることになっている。
 でも、本当のところは違う。
 ひらがなを覚えるにしても、ひらがなそのものを覚えるのではなく、線の長さの割合や、くっついているか離れているか、クロスしているかいないかなどの個別の認知があって初めて、ひらがなだってなんだって理解できる。でないと、どんなに叱られようが、練習を繰り返そうと、習得は出来ない。
 今の子供たちの勉強を見ていると、それこそ、勉強をしてもセンター試験で平均点が取れないような生徒は、何かしら、そうした認知のレベルからやり直した方が良い者がかなりいると思っている。中学までの勉強では元々のアタマは良いから、「知識」として何であってもかなりのことを習得してそれなりの良い高校に入学してくる。しかし、根本的な理解という側面では、かなり、根底的なレベルでの誤解というか認識のずれがあるように思われてならない。
 勉強が出来る生徒は、数学も出来れば国語も英語も何でもできる。なぜ出来るかを問えば、根本的な理解が深いからだとしか言いようがない。もちろん、言語的な理解と数学的な理解は異なる性質を持つ。国語は出来ても数学はからきしダメ、と言う生徒がいるのも事実である。しかし、よく物理の先生が言っていたりするが、国語が出来ない生徒は、結局物理も出来ない。なぜなら、日本語の文章で書かれた問題文が理解できないからである。現代文が出来る生徒は伸びる、とも言う。言語能力が思考力の根幹を作る。国語は出来ても数学がダメだという生徒は、同じ国語であっても、論理的思考を要求されれば国語だってできない。数学の偏差値が30で、国語だけ80あるとか、逆は通常あり得ない。国語が55で数学が70程度の差はある。だったら、55と70の差を知ろうとするより、30と80の差が何であるかをつかむ方が、理解の本質が何であるかよくわかるということだ。
 アルファベットやひらがなカタカナの字形のとらえ方、モノを正しく数える簡単な計算の仕方、平面や空間の把握といった、幼稚園や小学生レベルのことであっても、すでに理解のほどは異なる。だったら、そこから鍛え直すのが最善の方法なのである。内容は、今学習しているかなり高等な事項を通してて構わない。しかし、そうした根本から徹底することが、思考の根源から揺さぶることになり、子供の(大人でも)学習の基本をたたき上げることになるのだ。

 学校の勉強ができるという、知的レベルの根幹を何が作り上げているかに特別なことは何もない。私が本当に理解しがたいのは、こうした基本を抜きにして、最初から、知識を習得させようとしたり、方法だけを教え込もうとしたりする教授法である。教えている人たちは、全くわかってないのだと思う。知識や方法は目に見える。だから、とらわれる。わかったような顔をして、全くわかっていないのである。

 本当に子供たちがかわいそうである。そんなんじゃ、できるようにならないよ、と思われる勉強法が世に中にあふれている。「そんなこと、見ればわかるじゃないか。」「パソコンでまとめた方がきれいだ。」「筆順なんてどうだって、いい。文字は区別が出来ればいいのだ。」「ネイティブだって、いい加減だよ」「試験はマークだから綴りは覚えなくてもいい」「計算は結果が大事だから、電卓で良い。」「手計算だと時間がかかって、肝心なことが出来なくなる」「本文を写すのは無駄だ。コピーの方がきれいだし能率的だ」「試験に出ることが出来ればいいのだから」
 誤った勉強方法を押しつけられている子供たちが、本当にかわいそうである。それで、そんな過ちに毒された子供たちは、正しい勉強の方法を指摘されても、少数派の勉強であるゆえ、それが正しい方法だとわからないのである。だから、食いついてこない。

 誤った勉強方法は、ちょうど、誤った勉強方法で高校までの勉強が何とかなった生徒がいるように、それぞれの知的レベル応じて、あるレベルまでは非常に効率的に行くから麻薬になる。大学受験だって、もともとの知的レベルが高ければ、どこの大学へでも行けるだろう。だから、人は止めない。誰がどの程度のレベルかは、最初からわからない。隣の友人が、うまいことやっているのを見たら、自分もまねしたくなるものだろう。しかし、いずれ、必ず、天井にぶつかって、いったんぶつかったら、同じ方法では決して乗り越えられない。応用が利かないのである。そんなときの言が「学校の勉強は役に立たない」である。しかし、もともとから、きちんと勉強をしておけば、天井にぶつかっても、ぶつかり方が違う。ごちゃごちゃやっていると、何かしら、抜け出る方法が見つかるようなぶつかり方になるのである。これができなければ、あやまった勉強方法で来た人は、どこかで、必ず、最初からやりなさなければならない。それでまた、「学校の勉強は役に立たない。」と言う。そんなのは、自分の勉強方法が間違っていたせいなのである。
 でも、こうしたことは、最初からきちんと勉強をした人でないと、決して気がつかない。私が見るに、最初からきちんと勉強をする重要性を知る人は少ない。子供たちが本当にかわいそうである。

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