考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「先生は次に何を言うか」

2007年06月21日 | 教育
を、考えながら授業を受けろと言っている。

 今の子は、ぽかんと口を開けて授業を受けている。先生が、口の中に何か「役に立つもの」を入れていくれるだろうと、良く言えば「信頼し」、悪く言えば「入れられるものなら入れてみろ。気に入れば喰ってやってもいいぞ」とふんぞり返って授業を受けている。どちらにしろ実に「受け身」なのである。

 「講義形式の授業なんて受け身だろ」「先生が話したことを聞くだけだ。そんなものさ。つまらない。」とお考えの方も多いであろう。「討論形式とかなら別だろうけれどね」そう思われる方もいらっしゃるだろう。

 しかし、同じ「講義」であろうと、次に先生が何を言おうとしているのか、先回りして考えることができれば私は決してその授業が受動的なものであると思わない。

 だから、ときどき、「さあ、私が次に何を言おうとしているか、考えてごらん」と言うことにしている。「この文のポイントがどこか、自分で考えてごらん。それができたら、自分でちゃんと勉強が出来るようになる」と時々言うことにしている。

 テキストを使った授業は、「謎探し」と「謎解き」と「発見」の連続である。
 その文章が、何を言いたいのか。違う表現をするとしたらどうなるのか。重要表現はどれか。なぜここではこのような言葉遣いをしているのだろうか、よく似た違う箇所では別の表現をしているのに。

 全てに答えが出るとは限らないだろう。しかし、読み手が自分でこういったことを考え続けて文章に接することが勉強なのである。その「方法を身に付けること」、それが「正しい授業の受け方」ではないかと私は思う。決して、先生の言うことだけを「答え」として理解し、頭に入れることだけでないのである。この点、大きな誤解がある。

 今の子どもの多くは、「先生の言うこと」「重要語句集」を頭に入れることが大事だと思っているのである。それが、「効率の良い学習」であると疑わない。(先生の方もそうだったりするけどね。)が、この方法は、決して「役に立たない」。長い将来において、決して役に立たない勉強方法である。なぜなら、これは「単なる作業」にすぎないから。(これは「たとえ」の1つでしかないが、)作業だけに特化した勉強方法では、「重要語句集」を作る立場になることは決してできないだろう。

 「重要語句集」を作ることができるのは、「重要でない語句」と「重要な語句」の区別の付く人、「判断の出来る人」だけである。「イマドキは、パソコンで頻度が出てくるから大丈夫さ」と思うのは間違いである。英語なら、(よく知らないのだけれど)「is」「are」「a」「the」の頻度は凄いものだろう。しかし、そういったものの大部分は取り除かねばならないだろう。しかし、大事な「is」「are」「a」「the」もある。では一体、その区別は、どうしたらできるようになるのだろうか。おそらく機械任せでは無理なことであろう。(それで、これができる機械を作ることができる人は、更に機械以上のことが出来る人なのだ。)

 これを可能にするのが、前に書いた「次に先生は何を言うか」を始めとする「考える力」である。自分がテキストを真に読みこなそうとする意欲と努力がなければできないことである。それで、その努力を続けることで、人の能力は開発されるのである。じわじわと、出来るようになってくるものなのだ。その意味で、どんな講義形式の授業であっても、真剣勝負となりうる。

 自分の経験で恐縮だが、実は、「先生が次に何を言うか」は、「当たるとけっこう嬉しい」ものである。
 同様に、先生が自分の知らない話をしてくれても面白いが、自分の知っていることでも、たぶん人は知らないであろうから先生が語るのを聞くのもなかなか乙なものである。

 今の生徒の多くは、この楽しみを知らない。ああ、可哀想になぁ。。
 だから、ちゃんと自分のアタマで考えるんだよ。そうすれば、少しずつ、本当の力となって「わかってくる」。これができれば、その教科は得意になる。