考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

筆記体を書くとブロック体の理解が深まるのに

2007年01月28日 | 教育
 生徒が板書するのを見ると、bとdの書き順が同じ、縦棒を先に書いて○を付ける書き順になっている者がかなり多い。注意するのだか、なかなか直らない。10年ほど前でもそう言う生徒がいないではなかった。しかし、もの凄く増えた気がする。それで、直すように言っても聞かない、というのもある。たぶん、「この方が慣れているもん」とか何とか言うだろう。僅か3年ほどのクセである。人生は長い、今のうちに直せ。

 何でだろ?と思って、ハタと思いついたのは、筆記体である。今の中学校では筆記体を教えない。(というか、先生に任されているのかな?)筆記体で書くと、なぜbは縦が先で○が後か、しかるにdではなぜ○が先で棒が後なのかがわかるというものである。今までは、左から前に書く、漢字の筆順と同じ、と言っていたが、それでも直らない、直さない生徒が多いのに気が付いた。
 黒板に筆記体を書いてやり、羽ペンの話からaの印字体がなぜブロック体と違うのかとかも説明すると、「ほーっ」と感心してくれる。

 教えることを減らしたせいで、理解が狭まった証拠のようである。
 一事が万事のような気がするなぁ。

 あ~あぁ。。。

12 コメント

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ピリオド (森下礼)
2007-01-31 22:49:54
ほりさん、聞いてください。私は最近高校1年男子生徒(おちおぼれ組っぽい)の家庭教師を始めたのですが、英語を見ていたら、彼、「ピリオド」を文末に書かないのですね。それで彼が言うには、テストの解答用紙にあらかじめピリオドが書かれているんですって。ひえええーーーー!!!!!!
 驚きました。そんな変なところにばかり気をまわし、正確な英文を書けない生徒を増殖させるとは、なんてオマヌケな教師かと。
 ほりさんはどう思いますか?
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そうですね。。。 (ほり(管理人))
2007-01-31 23:19:23
森下礼さん、コメントをありがとうございます。

( )内の語句を並べ替えて正しい英文を作れ、というような問題では、解答用紙に( )を書いて、ピリオドを打っておくことがあります。あくまでも、( )内だけ採点対象にするから。
作文の場合、「?」がなければ-1点とかにしますが、ピリオドは、けっこう難しい。(笑)なくっても減点しない、と決めるときもあるし、減点すると決めるときもあるし。で、あまり厳密に点を引くと、点数がなくなるんだよね。
これは推測ですが、ピリオドがないのに点をやるのは気分が悪いから、また減点するのは忍びないから予め解答用紙にピリオドを打っておく、という方法にしたのかもしれません。(実に、学校の先生が考えそうなことです。苦笑)
近年の傾向は、「生徒の良いところ(できたところ)を評価する」「点をやって努力を認める」を良しとするので、「正しく厳密に判断する」と言った絶対的観点が減る傾向にあります。
「生徒を評価する」は、要は「人間関係」ですから、これ重視の傾向と思います、はい。
理系(絶対性を重視するものの捉え方)が廃れるわけですよ。

>そんな変なところにばかり気をまわし、

あらゆることに言えますよ、これ。目の前の小石を取り除いて山登りさせるような。

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Unknown (heisan)
2007-02-01 15:37:33
> ( )内の語句を並べ替えて正しい英文を作れ
あー 中高時の英語の授業を思い出しますなぁ.英語は当時の僕が苦労した教科の一つですが,今になって思えば,その理由の一つは,「問題を解いていたら英語ができるようになる」と勘違いしていたことですね(誤解を恐れずに言えば).
ひどいのになると,「語句を並べ替えた結果の文頭から2番目と5番目の単語番号を記せ」とかありますからね.確かに,これは,分かっている人からすれば造作もないことなんでしょうが,そんなことで初学者を惑わすべきではない(*2).
国語の場合もそうではないでしょうか.内田先生も言っておられますが,文章中の「それ」の意味は何かとか,そんな瑣末なこと(*)に拘ってたから,いつまでたっても国語・語学学習の醍醐味を味わえなかったんではないか,と思います.

だから,僕が今になって(現役中高生に)言えることは,「瑣末なこと(問題形式)に拘らず,自分の微妙な言語感覚を大切にしろ」ということですかな.それからあとは,「日本語と英語は一対一対応はつかない」ということを,最初にまず断言しておくべきですね,中1の時点から.そんなことは分かり切ってることじゃん,と言われるかもしれませんが,これが分かっていないために,要らぬ苦労をする例は枚挙に暇が無いと思います.

*:もちろん,ピリオドをつけるとかは瑣末なことではないですよ.私が言いたいのは,文章・文・フレーズ全体を,それが存在すべき正しい文脈の中でイメージづける(=身振り手振りや発声などものまねを通じて他者の意図を自分の意図として発現できるようになる)のがまず先行すべきで,日本語訳に拘泥するとか,問題形式に拘泥するとかいうのは,言語学習の本質から外れた愚ではないかということです.だから,生徒がこういうことに拘泥してしまわないよう導くのが優れた語学教育なのかなぁと.

*2:余談ですが,こう考えていくと,語学や国語における問題というのは,「分かってる人には解けるが分からない人には解けない」という,内田先生の言う「顰みに倣う」的な意味での「教養」観念に基づく以下の構造を社会に根付かせることを強要してしまうのではないでしょうか.
すなわち,分かる人と分からない人を隔て,分かる人は分からない人が居ることによる満足を得,分かる人を下から羨ましげに眺める分からない人は,問題形式という泥沼をはいずり回って切歯扼腕する,というくだらない構造を作り上げてしまっているのではないか,ということです.
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問題と理解 (ほり(管理人))
2007-02-01 21:38:46
heisanさん、いつもコメントをありがとうございます。

>ひどいのになると,「語句を並べ替えた結果の文頭から2番目と5番目の単語番号を記せ」とかありますからね.

ああ、思い当たります。私は、しません。必ず書かせます。だって、大部分の子は(怠け者だから)、例えば、(this a is pen )だと、1 3 2 4、と順に数字を書いておしまい。This is a pen.ときちんと書かないんですよ。数字が合っていればそれで良しだから。で、間違いが生じやすくなる。文をきちんと書けば自分で間違いに気が付くこともあるからです。

>そんなことで初学者を惑わすべきではない(*2).

解答用紙のスペースがないから、或いは採点の便宜でそうする人もいますが、生徒のことを考えてないんだよね、私に言わせれば。高三でも避けるべきだと思います。

*2に書かれていることですが、最善の策は、「○○について述べよ」「思うことを記せ」という問題にすればいいんですよ。そうすれば、本物の勉強をせざるを得なくなる。少なくとも、「問題形式という泥沼をはいずり回って切歯扼腕する」ことはなくなります。

結局、何度も言ってますが、センター試験、マークシート方式がいけないんですよ。で、採点者の能力が低いことが、マーク問題の蔓延りと言う状況を生んでいる。

高校入試・大学入試を論述問題にしたら、「採点の公平性が保てない」「そんなに手間をかけなくても、生徒の能力を測ることが出来る」など、本末転倒のことを言って反対する人がきっと出てきますよ、と予測。
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Unknown (heisan)
2007-02-02 00:36:08
> 採点の公平性が保てない
透明性という側面もあるでしょう.実際,就職採用試験(面接含む)では,人間性や人物重視とすると,ダメだった場合,いったい何が原因でダメだったのが諒解されないという問題を孕んでいます.センター(試験)は運,(就職の)内定は恋愛と云われるのはその故でしょう.

> そんなに手間をかけなくても、生徒の能力を測ることが出来る
これは例の,実際的な学力とペーパー試験的学力との間に明確な相関関係があるというやつですね.
それはそうなんだけれども,問題は,マークシートを始めとする形式が権威を持てば持つほど,受験者はそれに拘泥されざるを得ないという構造があることです.

<一つの解釈>
試験の形式は現状のままでよい.馬鹿げた試験形式が存在するのは,本当に大事なことが分かる人間かどうかを見抜くための最初の関門である.「教科の知識に対する試験」というのは仮初めの姿であり,真に試されているのは,「俗物のうちに伍する事のない人間である」(*3)かどうかである.
受験テクだけで得点を稼ぐことは,短期的にはできても,それは所詮付け焼刃でしかなく,安定した成績を維持するに足るものではない.

反論:
でも,昨今の商業主義の台頭の例を引き合いに出すまでもなく,「受験生は必死」ですから,そんな真理を解いても恐らく聴く耳を持たないでしょう.
「それは正しいが,おれたちゃ必死なんだ.一点の有る無しがものを言う世界なんだ.そんな悠長なことやってて,もし落ちたらあんた,責任取ってくれるのかい?」と来られたら,私もすぐには切り返せない.う~む…

*3:これこそ「確かな学力」ですよw
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論理と論理以前 (ほり(管理人))
2007-02-02 20:37:54
heisanさん、コメントをありがとうございます。

要は、学校で学んで一般社会で学べないのは、「論理」なのですよね。でも、それがよく理解されてない。(私だってそうだろうけど。)教える側が、論理的思考に自信がない。だから、採点が出来ない、というのがあると思うのです。

>受験者はそれに拘泥されざるを得ないという構造

恐いのは、このせいで、きちんとした論理的思考を得ることが出来ない、ということなんです。でも、試験問題を作る側は、そうだと思ってない。「論理的思考を鍛えればマーク問題もできるようになる」と思っていて、それは真実なのだけれど、マーク問題対策で本物の論理的思考は鍛えられないことに知らないフリをしている。

>真に試されているのは,「俗物のうちに伍する事のない人間である」(*3)かどうかである.

で、これに答えることが出来るのは、人口の上位数パーセント。それもほんの僅か。だからそれ以外の者にとっては、知的訓練たり得ないのが問題だと思います。訓練を積めば鍛えられる層はかなりいると思うのに、そうなってない不幸があると考えます。

ところで、話は記事に戻るのですが、ショッキングなことが。。。教員の中に、dの書き順を、棒、○の順で書いている人を発見。数年目の人なんだけれど。。。(書き順が違うと、bdがごっちゃになって特に初学者、また生徒によって、綴りや発音が定着しないんです。)その他にも、びっくりしたことがいろいろ。まあ、同じ学年を担当していたとき、お陰で眠れぬ夜を過ごしたことが何度もありましたー。こーゆーことと、やっぱり無関係じゃないよなぁ。。。。

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Unknown (heisan)
2007-02-04 05:53:31
> 教える側が、論理的思考に自信がない。だから、採点が出来ない、というのがあると思うのです。
そもそも「論理的思考」そのものの結実である文章を,"100%客観的"に評価する(点数をつける)ことはできないと思います.入試というのは選抜が目的ですから,どうしても「1点の差」が重要になる.だから入試に論文形式は向かない.
要するに,「試験のための」勉強という考え方を捨てよ,ということになるんでしょうかねぇ.うわぁ,これってめっちゃ難しいなぁ.大多数の高校生に「自分のための勉強」をさせる.だめだ,難しすぎる(*).

> これに答えることが出来るのは、人口の上位数パーセント。それもほんの僅か。だからそれ以外の者にとっては、知的訓練たり得ないのが問題
ごもっともです.言い換えると,現在のマークシート中心の傾向は,誰にも教えられなくても「これ(マークシート)は所詮まやかしに過ぎない」と悟れるごく一部の人たちのため「だけ」の教育である,とも言えるわけで.
でもそれじゃあ「公」教育とは言えない….

> dの書き順を、棒、○の順で書いている人を発見。
大変畏れ多いですが,私もこの順序で書いてます(爆).私は,漢字にしてもアルファベットにしても,人より書き順はすごく守るほうだったのですが,ネイティブ・アメリカンの人が書き順に無頓着なのを見てから(その他にも,筆記体とブロック体をごちゃまぜにして書いてたりとか),いつのまにかこの順で書くようになっていました(笑).
まぁ,「最初」は書き順を守ったほうがいいでしょうね.「最初」=「小中高」です.

*:
僅かに望みがあると思われる方法は,高校生に論文を書かせることです.
論文.つまり,問いがあって,その問いの答えを探すためにあれこれ調べ,一応の答えを導き出す.この連続が学問の本質ですよね.論文を書くための作業を通じて,学問の本質的なところを追体験できるのですから,これほどベストな選択枝も無いのではないでしょうか.
生徒たち一人一人の問いは違います.それは,一人一人の生育環境や素質が違うのだから当たり前です.論文を書くための作業とは,その生徒の問いを生徒の力によって育て上げる作業です.もちろん,その中で生徒が言ってくるテーマというのは,およそ模範的だと想像されるテーマ(「○○川の水質汚染について」とかw)とは程遠いものが多く有ります.ラーメンの研究をやる奴が出てくる,マンガの研究をやる奴が出てくる,野球の研究をやる奴が出てくる,….それでいいんです.その生徒らの純粋な気持ちに対して「なんで?」って聴いてやることが必要なんです.先人たちが遺した学問ももとはと言えばそこから始まったのですから.
今の子どもの多くは,大学の4年生になって初めて論文を書くという経験をします.大学4年になるまで論理的に整った長い文章を書くということを強制されることがないのです.これは今の日本の教育の大きな問題点だと思います.
文章を書くというのは,「自分の考えていることを相手に伝える」という非常に基本的な行為です.なのに,それを養うための措置が教育現場において講じられていない.というか,講じるためのシステムが整っていない.
『はじめての論文作成術』という本に「高校生に論文を書かせる」ということを実際に教育現場で実践している例が書かれてあります(他の学校でもやっているかもしれません.ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示ください).総合的な学習の時間を用いることで,どこの学校でもシステム上は導入可能だと思います.ただ,この学校は多くの生徒が筆記試験なしに内部進学をするので,大学受験を前提とする一般の高校で導入するのはハードルが高いかもしれません.
一番いいのは,こういう「高校生に論文を書かせる」ことを高校でやって,一定の成果物を提出することが,大学入試の一部と化することでしょうか.「試験のための勉強」が「自分のための勉強」にピタリと重なる.
ただ,そうして書かれた論文を評価して点数をつけて,それで足切り(選抜)を行うとなると,難しい問題はたくさん出てくるでしょうねぇ.ただでさえ忙しい大学の先生らの仕事がまた一つ増えるとか….採点作業を民間に外注するにしても,カネがかかるわけだし.要するに論文の採点というのは大変コストのかかる作業なのです….
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論文 (ほり(管理人))
2007-02-04 15:41:25
heisanさん。コメントをありがとうございます。

>だから入試に論文形式は向かない.

論文の採点は「1点差」でなく、10点刻みでもABCでも何でも、基準そのものを変えてしまえばいいと思いますよ。論文は最低「B+」でないといけない、とか。

しかし、最大の問題は、例えば、大学入試の小論文試験など、受験生に読ませて書かせる問題形式で、その読ませる文章そのものの論が破綻していたり、質問が既に偏っていたりするときがあることです。出題者がわかってないってことですよ。そんなので採点が出来るわけないです。「まとも」な思考力の受験生が困るともいえるし。

>誰にも教えられなくても「これ(マークシート)は所詮まやかしに過ぎない」と悟れるごく一部の人たちのため「だけ」の教育である,とも言えるわけで.

全くその通り。「マーク試験が邪魔だ」と言うくらいじゃないとね。でも、今は、学校の先生が率先して「対策」を練っているからなぁ。。

>ネイティブ・アメリカンの人が書き順に無頓着なのを見てから

えっ、そうですか。学校に来ているAETを見ている限り、きちんと書いてますよ。さすがだなぁと思ってました。(笑)筆記体とブロック体は絶対にごっちゃに書くな、と何かで読んだこともありますが、「教養」などとの関連はないのでしょうか?

で、上記の先生の最大の問題は、私がそのことを指摘したら、「あ、そうですか。ずっとこうやって書いてました。」と、全く疑問に思ってなかったことなんです。当然、「なぜ○が先か」の感覚がないわけで、教えられるわけがない。で、すべからく授業も「羅列的」で、「繋がり」の捉え方がない。

高校生に論文を書かせるのは賛成ですが、小論文は反対。
短い時間で僅かな資料で根拠を明らかにせずに結論だけを急がせる。で、生徒が身に付けるのは「論拠をはっきりさせずに感覚的に結論を素早く出すことが考えるということだという経験」なのです。そんなのだったら、しない方がマシというものです。

>その生徒らの純粋な気持ちに対して「なんで?」って聴いてやることが必要なんです.

何だっけ?理科関係の論文コンテストがありますよね。「なんで?」を追求させる。で、実験などを徹底的に行う。そんなのはとても良いと思います。(社会でも国語分野でも論証させれば何でも良いんだけれど。)でも、大多数の生徒は、そこまでの探求心が保たないのですよ。根気がない。「めんどー」なことはしたくないって。だって、筋道を追って探求するって根気が要りますもの。で、どんな疑問でも、突き詰めていけば「未知」に到達し、次なる疑問に至る。それが「学問の世界」でしょうし、社会の事象でもあるでしょうね。
で、私が知る限りでは、「調べて書いて疑問解消、すべて完結。」です。「次への課題」がないのが大きな問題だと思います。「次への課題」こそが学問の道だと思うのになぁ。(ラーメンでもマンガでも、野球でもなんでもいいんだけれど。)

「総合学習」も「ゆとり教育」も、本当は、そういうところを狙ったのでしょうが、「探求心」を全ての子供の求めようとして、結局教える側がいい加減な対応しか出来ず、失敗したのでしょう。
過去の小論の問題から察するに、大学の先生でもあの程度なら(って、皆が皆そうでないことはわかりますが。)、大部分の中高の先生には絶対に無理な話です。

まあ、でも、いやしくも「大学」で学ぶなら、きちんと論を通す思考力は必要でしょう。

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Unknown (heisan)
2007-02-04 18:24:39
> 基準そのものを変えてしまえばいいと思いますよ。論文は最低「B+」でないといけない
ごもっともです.
でもそれだといわゆる足切りの要素にはならないでしょうね.「論文を頑張れば,偏差値の向上に結びつく」というのでないので,生徒ら(及び進学塾の先生)はそれを「邪魔な科目」と位置づけてしまう可能性が無きにしも非ず….
また,この「最低B+でないといけない」が正常に機能するためには,学校の先生らが頑張らないといけないんですよね,底上げのために.その苦労を厭わないインセンティブが果たして今の学校の先生にあるか?(笑)ゆとり教育の失敗例を見ますと,それは無理ではないかと思うのです.今の小中の卒業証書が事実上形式的に発行されているのと同じように,「最低B+でないといけない」というラインも,どんどん甘くなって,事実上無意味化してしまうのではないかと.

> 「次への課題」こそが学問の道
おっしゃる通りです.論文とは所詮「中間報告」に過ぎないのです.或る問いが解決するということは,また別の問いが湧き上がってくることでもあります.逆に言えば,次の問いが湧き上がってこないようでは,まだその疑問は解決していない,とも言えるでしょう.

> 大多数の生徒は、そこまでの探求心が保たない
> 私が知る限りでは、「調べて書いて疑問解消、すべて完結。」
確かに,放って置けば大抵の子はそうなってしまうと思います.でも,そうなってしまわないために教員が居る(教育がある)のではないでしょうか.生徒と一対一で論文の内容について面談をするのです.そうして話しているうちに「新たな疑問がある」ことに気づかせる,みたいな.

> その読ませる文章そのものの論が破綻していたり、質問が既に偏っていたりするときがある
物語文の解釈問題で,文章の作者自体が「その解釈は違う」と打って出るような場合でしょうか.ありそうですねぇ.

> 筆記体とブロック体は絶対にごっちゃに書くな、と何かで読んだこともありますが、「教養」などとの関連はないのでしょうか?
大学の英語学の先生も似たような感じでした(笑).何だろう.僕はそのとき「ああ,この国ではこういう多様性を許してるんだ」という印象がありましたね.
最初は「型」を教えるが,卒業後は,自分の書きたいように書けばいい.それで読めなかったり相手に不快感を与えたりするようだったらクレームが来るわけだし.
日本における漢字でも,年配の方(に多い)はときどき凄い,読めないくらい達筆に書かはる方がいらっしゃるじゃないですか.僕はそれの英語版だと思っています.

> 小論文は反対。短い時間で僅かな資料で根拠を明らかにせずに結論だけを急がせる。で、生徒が身に付けるのは「論拠をはっきりさせずに感覚的に結論を素早く出すことが考えるということだという経験」なのです。
(笑).多分,「長い長い論文を採点することは事実上できない」「それでもやらないよりはマシ」という2つの理由があるのだと思います.論拠をはっきりさせずにというか,本当は,例えばプロなら,短い時間でもちゃんと確かな論拠をもとに書けると思うんですよ.感覚的に結論を急いでるような小論になってしまうのは,書き手の熟練度に応じた速度で書いていないからです(プロは速く書けるが初学者は時間がかかる).でも今の世の中では時間が大事ですから,論拠を示しつつ且つ短期間で書けるようにならないといけない(ビジネスの現場でもこういうことは日常的に行われていると思います).
 だから,プロの仕方を手本に書き方を学ぶ,というところでしょうか.今の高校でできそうなところは.
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挙げ句の果ての多数決 (ほり(管理人))
2007-02-04 19:04:34
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>底上げのために.その苦労を厭わないインセンティブが果たして今の学校の先生にあるか?(笑)(後略)

なるほどなるほど、おっしゃるとおりですね。

学校で話をしていると、論拠無しで討議する。或いは、論拠が「時流」「時代」だったりする、人から批判されないことだったりする、相手を説得しようと言う意志が皆無だったりするのが何とも言えませぬ。(笑)
でもね、多少であっても「疑問を持つ」姿勢だけでも持てればまだマシかと。

>生徒と一対一で論文の内容について面談をするのです.そうして話しているうちに「新たな疑問がある」ことに気づかせる,みたいな.

ウチのよく似たレベルの学校は、小論指導を外注していると聞きます。教員に指導能力がないからって。
「B+」は机上の空論でしたねぇ。。(笑)
しかし、「疑問を持つ」ってのだけでも、教員ができなくっちゃと思います、はい。

で、大学の先生でもアルファベットの書き方は、そんなものなのですか。へぇ~と思いました。でも、我々は「外国人」として書くわけだから、きちんと書いた方が良いですよね。

>例えばプロなら,短い時間でもちゃんと確かな論拠をもとに書けると思うんですよ.

プロの場合の目的は、何らかのヨコシマなものが(失礼)あろうというものですが、生徒の場合は、純粋な思考訓練が目的ですからその点どうなのかなと。
ディベートなどで、賛成、反対と意見を陳述するのも、本来的にはどうなのかな、と疑問に思ったりします。生半可なディベートの指導は危険だと思う。
子供に考えさせるのに最も大切なのは、どういう理由で、何を求め、それが何に至るのか(目的)、その目的は適切かどうか、と言う視点だと思うのですが、多くの討論などでは、そこまで論議しないから。
簡単に結論を出す、と言う姿勢が困るなと思うのですが。
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