第12.2章 キーホーは読み続けます。
第一章
あちこちで河川が氾濫し乗客たちが足止めをくらい、土砂は元の居場所を離れ、災害を生み、百姓たちが青ざめた。 暴風雨は三日間続き、三十分程の小雨を経て地上に在るもの、あらゆるものに希望を与える光に変わった。 空には雲も太陽も無く輝きだけが広がり、それは、とてつもない力が完全に活動を停止した時に、じわじわと広がり、しみ出してゆく、無という沈黙の侵略の様に感ぜられる。 蝉たちが一斉に鳴き始めた。 僕は静かな町を歩いていた。 町内会の人達が路面に散乱したガラクタを一カ所に集めていた。 その音が、やけに静かな朝を盛りたてていた。 近くの川の鉄橋がぐらつき、上りの列車は全面不通になっていたので、僕は、しばらくこの町で時を過ごさねばならなくなった。 木造の家並みが続く風景を眺めながら、登校中の子供たちと擦れ違い、泥だらけの白犬を見、細い砂利の坂道を抜けると、丸くひろまった空き地に出た。 全体が中心に向けて窪み、小さな池の様に雨水を溜めていた。 僕は濡れないように注意深くぬかるんだ池の端を進んだ。 空き地の回りには高い杉の木々が壁の様に囲っていて、今来た坂道のちょうど真向かいに、森の中へ、その先を隠している石段が、雨水で黄色く光っていた。 もと来た方を振り仰ぐと、山々にすっぽりと包まれ、孤立した町の全容が見下ろせた。 数える程しか建物がない。 小さな町だ。 あちこちで山々が風雨に喰い荒らされた、その痛々しい傷跡を、一斉に空に向けて訴えているようだ。 小屋の様な駅舎に、行き場のない乗客たちが群がっているところを見ると、まだまだ汽車は動き出しそうにない。 汽車は石の様に黒い胴体を、ずっしりと大地に接着していた。 橋桁が外れたのなら、まあ、当分動かない。 事によると何日も止まったままかもしれない。 それなら、又、この坂を下りて戻れば良い。 まぁ、僕は、行く場所も特に無いわけだが、どうも今来た方向に引き返すのは気の進まぬ事だ。 水の滴る石段を巨木たちに挟まれて、ゆっくり登っていくと、遙か上方に大きな赤い鳥居が見えてきた。 高くなるにつれ、蝉どもの不協和音が、やけに強くなり右耳の奥で渦巻のように、ドリル音が暴れ出した。 僕の耳は昔から蝉の鳴き声に弱く、特にあぶら蝉のコーラスに会うと、「ギュィーン」という気が薄れて遠くなる様な轟音を耳内部で製造してくれる。 これが始まると、頭の右側がジーンと痺れ、思考もとたんにピントが外れだしてしまう。 僕はポケットをまさぐり、水泳用の耳栓を取り出して右耳に深く押し込む。 それでも、蝉の声はジワジワと耳の奥に、右脳の奥に、染み込んでくる。 登りながら、重力が左側だけ強まったように重心が傾いていく。 赤い鳥居の全体が現れた頃、僕は、ぴったりと石段の左端に体を寄せ、殆ど木々に体を摺り合わせるように立っていた。 汗が顔を這い、顎の先端からしたたり落ちた。 汗は、その中で小さな太陽を弾ませていた。 近くで見ると鳥居の赤ペンキは、かなり粗雑で、血飛沫がへばり着いた様な塗り方だった。 鳥居を抜ける時、背筋に雨水が連続して降りかかってきた。 ひやっ、とした感覚が、意識を一瞬、鋭角的にした。 その時、僕は確かに手水舎の脇に黒い人影を見た。 白い石の道が、僕の前から手水舎と本殿の方に流れるように続いていて、その向こうは高い杉木立が被さる様に立ち並んでいた。 僕は、いつもの癖で、すぐに人影から目を逸らしてしまい、再び横目で確認しようとした時には、不思議な事に、そこには誰かがいた痕跡さえもないのだった。 意識が左側から白くなった。 錯覚か? 次に僕は不安が音も無くやってくるなと、予想し、その通り、不安は好奇心を伴って、すぐにやって来た。 来るな、来るな、と思えば思う程、恐ろしくなってくる。 僕は、この不安の呪縛から解放されたく、静寂の中に言葉を発した。 「あっ!」 僕は夜中、金縛りにかかった、又、かかったなと思うと、恐ろしくて、それを否定してみたく思い、手足を曲げてみたり声を上げてみる事がある。 今、それと同じ事をやった。 短い間だが、僕は、うぶ毛一本動かさずに、あの場所を見ていた。 ゆっくりと通り過ぎる風を感じ、頭上に広がる巨大な空間を感じた。 大気圏から、山に囲まれた小さな町の神社の中の小さな自分を俯瞰しているようだ。 気が納まり、安心してくると僕は自分を愛したくなる。 手は自然に口や局部の粘膜へと動いてゆく。 唇に人差し指を走らせながら僕は本殿に近づき、手水舎の背後を確認できる位置を求めた。
この症状は幼い頃からの父や兄たちの僕に対する過度の干渉に根ざしている。 父や兄たちの強い制圧の下で僕は少年期を過ぎても、じっと屈従していなければならなかった。 しだいに恐怖と憎悪の的であった父や兄たちを避けようとする欲求が、人間全般に向けられ、無意識が、他者から顔を背ける行為として僕を駆りたてている。 そんな時、僕は無機質を凝視せずには、いられない。 僕は再び視線を彼の上に移した。
彼の目は澄みきった灰色に見えた。 彼の額は、一本の皺もなく、完全にアクセントを排した冷たい永久性があった。 彼の鼻は、両目の真ん中から、全く不統合を感じさせぬ強烈な美しさを持って配置されていた。 口もとまで、少しの変化も無く、真っ直ぐ、のびていた。 彼の頬は、ナイフで抉られたように鋭く、見ようによっては痛々しく削げていた。 彼の口は、強烈な怒りによってできた、亀裂の様であった。 弾けたように大胆で、それでいて、あまりにも人儀的な、あまりにも人工的な裂け方でもあった。 耳は大きめで正面に向かって翼のように開いていた。 髪は短く、荒々しく、前髪が、ところどころ額にへばりつき、他は全体的に逆毛立ち、殆ど真っ直ぐ突っ立っているようだった。 僕は軽いショックを憶えた。 この様に美しい顔を僕は、かつて見た事が無かったし、全く想像も出来ない、斬新で何か地球上では味わう事の出来ない、全く新しい文化に接したかの様な奇怪な陶酔があった。 それは、古今東西、人類が、あらゆる物に見出してきた、美の概念とは完全に次元の違うものだった。 異次元の美だった。
彼は皺だらけの白いシャツの汚れを払い、何かを呼び寄せるかの様に空を見上げた。 彼は、泥の付着したジーンズに小型の黒いカメラを下げていた。 彼が僕に向かって力強く歩き始めた時、背後の杉林から鳥たちが跳ねるように飛び出した。 僕には限りない喜びと不安があった。 というのは、彼に対して希有な愛着を抱いている事と、それを彼に見透かされ、彼の全てを洞察するような目で僕の、彼とは比較にもならない愚鈍で、ちっぽけな人間を見抜かれ、軽蔑されたくないのとで、対処の方法を破裂しそうな動悸の中で考え巡らせていたのだ。 (平然としているのだ。 平常時の声が出るように。 動揺を表してはならない。)
透明な、ハイトーンの声で彼は口を切った。 尖った白い犬歯が見えた。 どういう事だ? 彼は何かで僕を利用しようとしているようだ。 通常の礼儀を知らんのか? それとも、全く僕に対する興味、関心が無いという事を意味しているのか? 僕は彼への好奇心ではち切れそうなのに。 人格を無視された。 僕は恥辱を感じ、それでも、もう彼の美しさに完敗し心を奪われてしまっている自分が情けなく、何とか、自分の尊厳を保とうと必死になった。 「どういう事ですか?」 唇が、少し震え、声が上ずんだ。 くそっ! 「失礼。 いきなり無礼でしたか? 旅行者ですね。 ああ。 台風で電車が止まってしまったんで立ち往生なんですね。 ああ、太陽が、まぶしいですねぇ。」 彼は襟に吊り下げてた薄茶色のサングラスをかけた。 その時、光線の具合か?彼の瞳が青色に輝いた。 当然、僕は新鮮な感動を受け、彼に全てを委せたいと思った。 しかし、すぐに自尊心が、それを抑圧し軽い怒りに変えた。 「こんなとこで、君は何してるんだ?」 又、声はうわずった。 おそらく僕は彼を睨みつけていただろう。 「僕は、ここ十日間、人と会ってなかったんでね。 ちょっと精神的に外れてしまってて・・・・・・・・・。 誰かに、ずっと、ある事を頼みたくてね、要するに待ち焦がれていたんだ。 変に思うだろうけど、どうしても君に僕と一緒に、あるところに来てもらいたいんだ。 時機を逃したら、もう決して誰も見る事が出来なくなるんだよ、それは。」 「どうして、この町の人に頼まなかったのかい? 誰でもいいんだろ。」 彼は、しばらく沈黙し、仮面の様な顔を、じっと保った。 そしてポツリ。 「だめなんだ。町の人は。 こんな事、頼めやしないよ。 こんな事に力を貸してくれるわけが無い。 わかっているんだ。 そうさ、君みたいな僕と同じ年ぐらいで、一人でこんな場所へ散策しにやって来る、ちょっとばかし感性の鋭い感激家。 そんな人間でなければ、これから行くところへついて来てくれるわけが無い。」 緊張が少し解れてきたようだ。 彼の感情の起伏の全く無い淡々とした話を聞いていると、不思議と身体全体が軽くなってゆく。 まるでサイダーの気泡が身体全体を通り抜けてゆくようだ。 怒りや屈辱感は、殆ど感ぜられず、これから彼を助けてやれる喜びと、性欲に似たとろける様な興奮があった。 「話を聞かせてくれ、面白そうだ。 いったい君は何を手伝って欲しいんだ?」 「この神社の本殿の裏に小さな穴がある。 その穴は百m程、真っ直ぐに続いていて大きな鍾乳洞につながる。 百m先から急に石灰岩地形に変わっているんだ。 鍾乳洞は、しばらく天井も高く、横幅も広く、実に快適に続くが、しだいに狭くなり、上下左右から押さえつけられる様な状態になる。 そして、それを抜けると、ポッカリと周囲百mぐらいの空洞に出る。 天井は、ドームの様に、そこ一帯を覆っている。 その広まった場所からも又、小さな穴が無数に枝分かれしていて、地の底へ、死の国の入り口へと続いている。」 僕は、その洞穴の構造を必死に理解しようと神経を集中し、他の事は一切考えず、阿呆の様に唯、突っ立って、彼の完全と異常の混在した容姿に見入っていた。 彼は話しながら右手の人差し指を、ポキッと鳴らした。 「そこで、君に頼みたいのは----随分、自分勝手な事なんだけど----一緒に洞内に入ってもらって探索して欲しいんだ。 事情は、一口では話せないが、一人の女性が、その死の国の迷路に迷い込んでしまった。 その女性を探し出して、助け出さねばならない。 わかったかい? 頼む、協力してくれ。」 (RPGかいな・・・ぼそっ) 倒れる様に彼は頭を下げ、僕に懇願した。 襟元のプラスティックのような肌がジワッと光った。 すぐに承諾の意志が僕の口から飛び出しそうになったが、自我の抵抗が、それを抑えた。 確かに彼の容姿容貌は、遙かに人間の美感を越えてしまっていて、僕を虜にせずにはいられない。 それだけで、もう僕の心は体は、全て、彼の意のままになる事を切望している。 今だって、彼の言葉の、そのままの意味だけを、いつもの僕の キキーィ シュゥ シュウゥゥゥゥゥ ゴットン
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