元祖・東京きっぷる堂 (gooブログ版)

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「寺山修司」妄想:kipple

2009-01-22 04:28:00 | kipple小説

     「寺山修司」妄想



(口をちょいと曲げて、青森弁で)


ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

「人」と「人の世」の事象と言うものは、例えば、こちら側から見れば悪いものであっても、あちら側から見れば良いものであり、そちら側から見れば醜いものであっても、どっちつかずの側から見れば美しいものであったりと、プリズムのように無限の異なる輝きを有しているものである。
ぼくは「田園に死す」というエッセイ本を書き、「田園に死す」という映画を作り、「田園に死す」という映画音楽サウンドトラック・レコードを作ったわけであるが、自らは何も創作する事のない死骸に群がるハイエナのような映画評論家たちや、それに類する評論家・好事家たちにはおよそこの日本と言う国が、コカコーラの瓶に閉じ込められたトカゲと化して消滅してから百年の孤独が過ぎ去った後でも、およそ全く、まなこ裏返りしまま何も見えず、ぼくが何を表現したかは見当もつかない事であろうから少しばかり、このkippleという男に妄想電波を送りつけ語ってみようかなどと、時折、酔狂な想いにかられる訳である。

新しき仏壇買ひにゆきしまま行方不明のおとうとと鳥

当時、ぼくは「見世物小屋の復権」を天井桟敷という演劇集団を中心に様々なメディアを通して挑発的に展開していた訳で、だから近代における演劇とは「見世物小屋」から発生してるという事を、それを演劇ならず映画もそうだと特に言いたい訳でもなく、とは言うものの本や音楽アルバムもそうだとちょっと言ってみたかったような、ぼくは特に、この映画「田園に死す」においては自分自身の自伝と言う形を主軸に「日本人」と「日本人の世」と言うものを無数の方角から根っこを照らしあぶり出してやりたかったというのも無数の中の一つのガリバーの眼帯から洩れる光のようなものであるわけである。

少年倶楽部の附録になって死んだ母さま飛んできた
赤い一番星見つけた

先ほど、ぼくが「日本人」と「日本人の世」をあぶり出すと言ったが、それは、どんどん根っこを掘り出してゆくと最後に残るのは「人」と「人の世」に辿り着く事が自明なわけで、それをぼくは、コロンビアの作家ガルシア・マルケスの「百年の孤独」のような、コロンビアの砂漠の中の小さな村と、ぼくが生まれ育った東北の田舎の小さな村となんら変りがなく、それがあたかも違う様相を呈してくるのは歴史や習俗や伝統やらに囲われた箱の中に私達が絶えず囲われていて、その強固なフェイクを取り除くと言う事はとても困難であるという事でもあるが、映画と言う現実のフェイクを通してなら、構築可能なわけで、それをやろうとしたのが、ぼくの最後の映画となってしまった「さらば箱舟」なのだが、この映画を自らの手で完成できなかったのは少し無念であり、もっと無念であったのは、この「さらば箱舟」という映画を「百年の孤独」というマルケスの小説と同一タイトルで、又、同一のエピソードを挿入する意図が作者本人であるマルケスに伝わらず裁判沙汰になり題名を「百年の孤独」から「さらば箱舟」に変更せざるを得なかったという事も残念な事であるわけで、ガルシア・マルケスが描くコロンビアの砂漠の小さな村と日本の東北の田舎の小さな村というのは深い根っこの部分で全く同一なものであり、それを時間と空間の巨大なフェイクが違うと思わせているだけで、そのフェイクとは何なんであるかは、それぞれプリズムから放たれる無数の輝きを一つづつ集めるようにして、終りなき問いかけに対して終りなき解答を真夜中の病院で繰返してみれば良い訳で、それがマルケスに伝わらなかったのは不本意といえるかも知れないし、「人」と「人の世」がコロンビアの砂漠の小さな村と日本の青森の田舎の小さな村の違いが巨大なフェイクとしての幻想創出装置によるもので、それを描き出すには同じ題名で同じ事を日本だかどこだか知れぬ、どこかの小さな仮想の村を舞台に描かねばならなかったわけで、そうしなければ、このフェイクを描く事は不可能なわけで、著作権だのパクリだのそんな些細な事は、この大前提にとって問題ではないわけである。

吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず

フェイクと言う言葉を手がかりに、ここで映画「田園に死す」と音楽アルバムとしてのサウンドトラック「田園に死す」に対して、ぼくが仕掛けた距離を利用したトリックについて少し語ろうと思うわけで、後にビデオと言う記録装置が普及して、最初に設定したぼくの距離感覚を少し縮めてしまう事になるのであるが、それでもこのトリックは有効なわけであるが、出来るなら映画「田園に死す」は映画館で観て、それから家という箱の中で箱男となり-引用ジェームス・サーバー『人間のはいる箱』“箱はありませんかあ?”“大きな箱はありませんかあ?中に隠れたいんですよ”-サウンドトラック「田園に死す」を聞いて欲しいわけであるが、ビデオでもDVDでもブルーレイでも構わないから観終わった後に聞いてみて、サウンドトラック盤と銘打たれた「田園に死す」が映画「田園に死す」のサウンドトラックだと言う事に何の疑問も持たずに聞いた時、すでに、あなたはぼくの仕掛けたトリックに全く気づいていないわけで、少しづつ、サウンドトラック「田園に死す」が映画「田園に死す」で使用したものとは違うな、と気づき始めた時に、ぼくの問いかけが始まるわけで、この錯覚は、もちろん映画とサウンドトラック「田園に死す」の距離感がもたらすもので、記録媒体が普及した現在でも、なかなか気づかないもので、そもそも映画「田園に死す」の前半で描かれる美化したぼくの少年時代がフェイクであるばかりではなく、後半で描かれる本物の少年時代も実はフェイクであり、映画全体がフェイクとしての幻想装置に囲われているわけで、それは先ほど、ボクの言ったマルケス描く「百年の孤独」のコロンビアの砂漠の小さな村と東北の田舎の小さな村が根っこでは何ら変らないという事がフェイクとしての幻想装置よって違う様相を呈するのと同じように映画と音楽アルバムと言う距離感を利用したトリックも、同じく「日本人」と「日本人の世」という根っこで繋がっている同一のものであるが、それをひっくり返して、同じに感じるが違うという倒錯した逆転的なフェイクによる問いかけを、ぼくは提示したわけである。

かくれんぼ鬼のまゝにて老いたれば誰をさがしにくる村祭

そもそも映画のサウンドトラックとは何か?映画に使用された音声をそのまま記録したものの事を言うのか?サウンドトラックの定義とは、そもそも何であるか、そういう事もぼくは挑発的に問いかけてみたわけで、例えば、映画で使用した音声を同じ作者たちが同じように再度、作りあげてサウンドトラックとして再構築した場合、観客であるあなたがたが違いに気づく事が無ければ、実はフェイクである(映画に使用した音声とは似て異なる)にもかかわらず映画と、その映画で使用されたものをそのまま記録したものがサウンドトラックであるというサウンドトラックの定義に何の疑念を抱く事も無く、そのまま呑み込まれてしまうわけで、映画もフェイクなら、その映画で使用した音声をそのまま記録したというサウンドトラックの定義もフェイクであり、そのフェイクを取り除くためには、この場合の距離感を利用したトリックを見抜いた後での、フェイクとしての幻想装置を取り除いて、もう一度、ぼくの自伝的な物語を用いて「日本人」と「日本人の世」を照射した、この映画とサウンドトラックという二つ媒体の根っこで繋がっている同一の無数の問いかけを、あたかもプリズムのような無数の輝きの中から取り出して、裏返したり転がしたり終わり無き解答を有する、桜暗黒方丈記なのである。

しんちゃぁぁあああああ~~~んっ!

ぼくのイタコ的触媒であるkippleが眠いというので、そろそろ止めてやろうと思うわけだが、血は立ったまま眠るわけで、何がフェイクで何がフェイクを作る幻想装置であるかということは、例えば、最近で言えば、アメリカのオバマ氏の大統領就任式にも充分にみてとれる訳で、例えば“アメリカという国の悲しみは例えば空の別れ雲”という具合に、あの国はどんどん膨らんで空に飛んでゆく様をまざまざと世界中に熱狂的な祝祭空間というフェイクを作り出して錯覚させる事を意図的に行っている様が窺えるわけで、しかしながら、そういう事も何かのきっかけがないとマザマザとフェイクの裏側のもう一つの風景を映像として世界中に送られた、あの祝祭空間として作り出されたオバマ大統領就任式の有様を反語という意味も含めて、TVの前で観客として観ている自分自身の中で異化して実感するのも少々困難であったりするわけで、例えば、去年末に発売されたアメリカのTVゲーム「フォールアウト3」を体験している人間とそうでない人間とでは、あのリンカーン記念館から真っ直ぐに議事堂にいたる熱狂的な祝祭空間に対する見え方がずいぶんと違ってくるわけで、「フォールアウト3」というTVゲームの中ではあのリンカーン記念館から議事堂までのモールがボロボロの廃墟として克明に描き出されており、多くの勢力が凄まじい血みどろの闘争を繰り広げているわけで、「フォールアウト3」を体験した人間にとっては、TVゲームの中で描かれるあのリンカーン記念館から議事堂までの廃墟と化した空間の方がリアルに感じ、TVで映し出されるオバマ氏大統領就任式の熱狂的祝祭空間の方が仮想に見えてくるわけで、実はアメリカという国は、実際は一般に思われている以上にボロボロで短い歴史の残骸だらけで何もなくなり最後に残された唯一の希望の糸が、あのリンカーン記念館と議事堂を繋ぐ直線空間だけだという根っこの現実が浮き出してくるわけで、実はあの熱狂的祝祭空間の裏側にはボロボロの廃墟と化したアメリカの残骸しか残っていないという二重構図としてのフェイクが「主人の不在」となって、ぼくのまなこに映ずるわけで、主人のいないは不幸なのであり、それは実存のパニックに世界中が陥る予感と言うものを感じさせるわけであり、皮肉にもマルクス・レーニンの推測した通りのキャピタリズムの最終段階というものを反共を掲げ続けたアメリカが金融ネットワークを世界中に張りめぐらせ実に忠実にマルクスに加えてレーニンに全く忠実に爆走的に“疎外化”を実践してみせた自滅行為の結果であると思うわけであり、これが今の世界の状況なのであるという事をアメリカの初の黒人大統領就任式という熱狂的祝祭空間として作り出されたフェイクの中に見て取れるわけであり、そんな状況にぼくは、主人とは何を指しているのか?とは何を指しているのか?そんな問いかけをしつつ、反語的な意味を含めて「空気女の唄」を捧げてみたいと思うわけで・・・・

一つつんでは父のため 二つつんでは母のため 三つつんでは国のため 四つつんでは誰のため


                  


This novel was written by kipple
(これは小説なり。フィクションなり。妄想なり。)