元祖・東京きっぷる堂 (gooブログ版)

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ニトロソアミンと音 ①

2021-06-04 08:09:22 | 夢洪水(散文・詩・等)

ニトロソアミンと音
 


…遠い昔、世界が消えてしまう前に、こんな男が生きていました…

 その頃、朝になると、どこからからともなくフルートの音がカラッポの部屋に流れ込み、まるで過去に吸い込まれるように僕の中で消えていった。誰かが何故か毎朝、フルートを吹いていた。
 僕は、その小雨のような悲しい音に包まれて湯を沸かしコーヒーを入れ煙草を吸った。しかしコーヒーを最後まで飲むことは、なかった。空しくて飽きてしまうのだ。そうして時が過ぎてゆき夜がやってきた。短い時も長い時もあった。

 来る日も来る日も十一時頃になると僕はポストの前で、じっと待っていた。待ち続けた。春の、やわらかい光が僕を覆い、自転車のカラカラ、キキーッという音。そしてカランとポストに郵便物の落ちる音。しかし僕宛ては、いつも無く、ただ遠くから街の音、人々のざわめきの音が聞こえてきた。
 静かに時は僕を置き去りにした。

 僕は午後になると、よく映画を見に出掛けた。午後は、どういう訳か、いつも天候が崩れた。たいてい細かい雨が降った。
 街を歩くと数百人分のざわめきが、あたりに沸き起こった。それと飛行機とヘリコプターの唸り。

 僕は、じっと自分の足音だけに耳を澄ました。騒音の中でも僕の音はコツコツとわびしげに響き震えた。道路に沈み込んでいくような気がした。あてどなく歩いて帰ると再びポストを覗いた。
 国道から自動車たちの流れるサラサラいう音。どこかの学校から下校時間を知らせるトロイメライが空一杯に広がりポストの中は大抵からだった。僕は、いったい何を待っているのだろう?
 そして静かに夜がきた。

 ある日、細かい雨がポストにはじける様を僕は突っ立って見ていた。そしてカノンの旋律を雨音に聴いた。
 カノン…デジャヴだろう。何年も前、僕はよく、お茶の水の喫茶店で人を待った。そこでは午後になると必ずパッヘルベルのカノンが流れた。
 ポストはカラのままだった。

 僕は地下鉄に揺られ「みつばちのささやき」というスペインの詩人の作った映画を見に出掛けた。
 僕は六本木のあちこちを歩いた。深海をさまよっているようで雨は降り積もるプランクトンの死骸のようだった。そして、たまらなく寒かった。
 僕は、ひたすら音を探したが、それはどこにも無かった。雨音さえも消えてしまった。

 まだ時間があったので僕は小さな喫茶店に入りコーヒーを飲んだ。女子学生たちが大勢いて次から次へと高い声と笑いを響かせていた。僕は背を向けて座り(コーヒーを飲み煙草を吸い)を交互に繰り返した。
 そして僕は音を見つけた。オルゴールのメロディが店内をゆっくり回って僕のところに来た。遠い昔に聴いた曲。しかし題名は思い出せなかった。僕は煙草を四本吸って店を出た。

 映画は静かに始まった。それは失われたものたちの映画だった。はかなく消え去る幻へのレクイエムだった。海の底に深く深く落ちていく様な映画だった。海の底には失われた古代の文明がある。僕たちの失われた伝承が薄く消えいりそうにして揺らめいている。

 精霊の存在を信じた少女は村外れにあるポツンと残された廃屋に行く。ある日、少女は小屋の中で「傷ついた若者の姿をかりた精霊」に出会う。若者は懐中時計の蓋を、ぱちっと開く。すると時計の中からオルゴールの音が流れ出す。
 次の日、再び少女は若者に会いに行く。しかし崩れかけた小屋の中に若者の姿は無い。少女が家に帰ると父親が同じ懐中時計を持っている。少女の前に座った父親はパチリと蓋を開く。すると時計の中から同じオルゴールの曲が流れ出す。少女は不思議そうに目を開く。
 若者は精霊ではなく脱走兵だった。彼は少女に出会った、その夜、射殺された。父親は、その遺品を持っていたのだ。

 僕にも昔、こんな事があったような気がした。今は、もう思い出せない。

 偶然の不思議ないたずら。オルゴールの音。失われた幻。

 僕は地下鉄の響きに合わせてカウントしながら家に帰った。静かな雨音と共に夜が、ゆっくりと滲み出した。
 いつものように錆び付いたポストの扉をきしませ中を覗くと僕宛ての手紙が雨水に滲んでしょんぼりと縮こまっていた。廃屋の中で立ち続ける少女みたいに。

 遠く夕暮れの彼方から列車の音がした。

 手紙は彼女からだった。五年前、僕が最後に出会った時、彼女はカーリーヘアだった。それを、ふと思い出した。
 そしてあの頃は全てが騒々しく全てがやっかいだった。



 僕は大学時代に入り浸りだった喫茶店で彼女と待ち合わせた。お茶の水に来るのは三年ぶりだった。そして、その喫茶店は、もう無かった。今は、もう無いのだ。
 深海の中では、全てがぼろぼろと崩れて跡形もなく消え失せてしまう。深海世界。

 そこには辛うじて過去の外観だけ保つゲームセンターがあった。色とりどりの音の渦巻きに入って行くと顔馴染みだったレジ係りの女性がいた。彼女は僕を憶えていた。

「あら」
 僕は他の店員たちはどうしているか、どうして店は無くなったのか、伝々・・聞いた。

「さあ、私はまだ、ここにいるけどねぇ。皆、何をしてるのかねぇ…」
 とにかく今は、もう失われてしまったのだ。ごく当たり前の事だ。特に、どうという事はないのだろう。

 仕方が無いので僕は、その過去の喫茶店の前で彼女を待った。雨が傘に落ちる音を聞きながら。
 よく見ると見掛けは似ているが、ぐるりはすっかり失われていた。変わらないのは車たちの音と空気の匂いだけだった。しかし、それだけでも変わらぬもののある限り僕は、この風景を異化する事が出来た。
 風景が僕を放逐したのか?それとも僕が全てを放逐したのか?おそらく両方だろう。雨の中、僕は煙草を三本吸った。そして三本のマッチを水たまりに捨てた。

 彼女が来た。ショートカットだった。時間はピッタリだった。
「あら、ゲームセンターになったの?」

 僕らは坂を下った。足音がピシャピシャ二重奏になった。ポツポツと雨音のように僕らは会話した。
 彼女は五年前、短大を卒業し故郷へ帰った。そして二年前に再び東京に出てきた。彼女の五年間に何が起きたのか、何故再びここで、こうして話しているのか僕にはよくわからない。とにかく僕は今、二十六歳になった。そして、おそらく彼女は二十五歳になったのだ。
 そして、おそらく五年前の全ては幻となり失われてしまった。

「キャンドル」という喫茶店に入った。ドアを開けると鈴の音がした。テーブルにはランプが灯され店中ふんわりとした油の香りに包まれていた。
 格子窓の彼方には雨に覆われたこの惑星の静かな外観があり、座ると木製の椅子はギシギシと軋んだ。
 彼女はコーヒーカップを指先で何回も弾いた。店内に「タイスの瞑想曲」が流れ、僕は静かに煙草に火をつけた。レコードはパチパチとはじけた。



「仕事は、うまくいってる?」
彼女の左手は左耳の上の髪を弄り回していた。この癖は同じだった。

「会社は三ヶ月前に辞めたんだ」
僕の右手は灰皿と口の間を行ったり来たりしていた。これも同じだった。

「そう。うまくいかないのね」
隣の席の男がノートに何か書いていた。ペンの走る音。

「まあ、特にどうこう無いけどね、僕には、こういうやり方しかできない」
奥の席の若いカップルが指を絡ませているのが見えた。

「私も会社、辞めたのよ。又、四国に帰るわ」
店のあちこちで椅子が軋んだ。若いカップルがギョッとして僕らを見た。何故かは分からない。そういうもので、どうってことないのだ。

「もう、こっちには出てこない?」
「たぶんね」
 男のノートが、ちらりと見えた。ノートは白紙だった。ペンの走る音は、まだ続いていた。
 誰かが戸を開け鈴の音と冷たい空気がテーブルの間を駆け抜けた。僕は再び煙草に火をつけた。そしてコーヒーカップにスプーンを突っ込み音をたてた。

「ヘビースモーカーね。今、煙草は流行らないわよ」
 彼女は笑ったが目は悲しい猫のようだった。こんな目を見たのは久しぶりだった。

「煙草は、いつやめたんだ?」

「あら、私、煙草吸った事無いわよ」

 遠くでクラクションが聞こえた。僕はおかしな事を何の関連もなく考えた。(この瞬間に、いったいどの位の生命が音を断つのだろうか)と。

 彼女は確かに五年前、僕と別れるまで煙草を吸っていた。左手で…。僕の記憶と彼女の記憶は食い違っていた。
 おそらく、物質の風化の位相の中で人々の記憶までが風化してしまったのだろう。どこかで何かが狂ってしまった事には間違いない。

「髪の毛は?カーリーヘアーは、いつやめたの?」
 彼女は目を大きくした。その時、若いカップルが、ひそひそと囁き合いながら僕たちのテーブルを通り過ぎていった。床の軋む音。

「どうして?あたし煙草を吸った事も無ければ、カーリーヘアにした事だってないわ」
 僕は震撼した。僕の隣の男が無表情に、こちらを見た。再び僕は男のノートを見た。ノートは真っ黒に塗りつぶされていた。

 全ては幻なのかもしれない。みんな、時間によって歪められ、崩れていく。形あるものは無い。事実というものは無い。一人一人、主観だけの世界を創り出し、その中で生きている。ただ、そういう事なのかも知れない。


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