霊亀山天龍資聖禅寺
(れいきざん てんりゅうしせいぜんじ)
京都市右京区嵯峨天竜寺茫ノ馬場町68
〔宗派〕
臨済宗天龍寺派大本山
〔御本尊〕
釈迦如来尊像
(しゃかにょらいそんぞう)
紅葉に包まれた錦秋の嵐山の美しさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。古来より、桜や紅葉に包まれた景色の美しさから、嵐山・小倉山周辺は皇族・貴族や僧侶・歌人など、多くの雅な人々に愛されてきました。
鎌倉時代、嵯峨野の地を愛した亀山上皇が、大堰川にかかる橋の上を移動していく月を見て「くまなき月の渡るに似る」と例えられたことから名付けられた渡月橋のすぐ北には、室町時代の名僧で作庭家としても最高の評価を得ている夢窓疎石国師の手による名庭を持つ天龍寺が、私たちを枯淡の美の世界へいざなってくれます。
庫裏の前に立つ力強い石組み。
もともとこの地には、嵯峨天皇の皇后で「檀林皇后」と称された橘嘉智子が9世紀中期に建立した檀林寺(現在の檀林寺とは無関係)がありました。檀林寺は平安中期には廃絶してしまいますが、その跡地には13世紀中期に後嵯峨上皇の仙洞御所、すなわち退位した天皇の御所である亀山殿が営まれました。形が亀の甲に似ていることから「亀山」と呼ばれた小倉山の麓に築かれた亀山殿は、後嵯峨天皇の息子・亀山上皇にも仙洞御所として愛され、後に建武の新政を行った後醍醐天皇も幼少期をここで過ごしたとされています。
曹源池の奥に見えるのは書院です。
鎌倉幕府の倒幕の際には「勲功第一」とされ、後醍醐天皇から諱の「尊治」の一字を賜って「高氏」から「尊氏」へと改名するなど讃えられた足利尊氏公ですが、天皇中心の政治への復古を目指し「建武の新政」を展開する新政権と対立。新政に対して不満を募らせていた武士層の支持を受けた足利尊氏公は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て朝廷軍を破り、1336(建武3)年に建武式目を制定して室町幕府を開きます。
その後、後醍醐天皇は奈良の吉野山に脱出して南朝を成立させますが、1339(暦応2)年に無念のうちに崩御し、その波乱の生涯を閉じました。この報を受けた足利尊氏公は、師として慕う夢窓疎石国師の進言を容れ、後醍醐天皇の菩提を弔うために亀山殿のあった地に寺院を開きます。亀山にちなんで「霊亀山」の山号を冠し、暦応資聖禅寺と名付けられたこの寺院は、1341(暦応4)年には弟・足利直義公の夢に現れた金龍にちなんで「天龍資聖禅寺」と名を改められました。一説には、元号を冠する寺院は延暦寺以外は許されない、という比叡山の僧侶らによる強訴が一因ともいわれています。
「天龍寺船」による日元貿易を行って伽藍建立の資金を調達し、1342(康永2)年にはほぼ整備が整い、京都五山の第一位という高い格式を誇った天龍寺ですが、1356(延文元)年の焼失を皮切りに、幕末の1864(元治元)年に起きた禁門の変にいたるまで、8度も火災や兵火に襲われる受難の歴史を辿ってきました。そのため、現在ある堂宇のほとんどが明治時代に入ってから再建されたものとなっています。
曹源池の龍門瀑。中国・黄河の故事を力強い石組みで表現しています。
足利尊氏公をはじめ、朝野を問わず数多くの人々から慕われ尊敬された夢窓疎石国師は「山水に得失なし、得失は人の心にあり」とし、作庭を通じて人々を禅の悟りに導こうとされました。「苔寺」の愛称で知られる西芳寺や鎌倉の瑞泉寺の庭園も夢窓疎石国師の手によるものといわれています。
黄河の急流の3段の滝を登りきった鯉が龍となって天に登るという、中国の故事「登龍門」に基づいて組まれた龍門瀑と呼ばれる石組みや蓬莱思想に基づいた鶴島・亀島、滔々と清水を湛える曹源池など、創建当初の姿を偲ばせる天龍寺庭園は、1955(昭和30)年に我が国初の史跡特別名勝に指定され、1994(平成6)年12月にはユネスコの世界文化遺産に選ばれています。
大方丈と曹源池。中ほどで左から右に突き出しているのが出島です。
アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、徒歩15分
・京福電車「嵐山駅」下車、徒歩3分
・JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車、徒歩10分
天龍寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・庭園拝観料:高校生以上500円(本堂・庭園拝観料600円)
拝観時間
・8時30分~17時30分(11月~3月は17時まで)
公式サイト
臨在禅・黄檗禅公式サイト 天龍寺