唐招提寺
(とうしょうだいじ)
奈良市五条町13-46
神仏霊場奈良 鎮護の道・第11番札所
1960(昭和35)年に再建された南大門。ここを一歩くぐると、美しい金堂が目に飛び込んできます。
〔宗派〕
律宗総本山
〔御本尊〕
廬舎那仏
(るしゃなぶつ)
奈良を代表する名刹・唐招提寺を語る上で外せない重要なキーワードが「鑑真和上」と「鎮護国家」です。奈良時代の律令国家は、仏教の持つ力によって国家を様々な国難から守り、繁栄を築いていこうとしました。そのために、国家によって寺院を建立・統制し、僧侶を育て、経典の収集と研究の充実を図ろうと、様々な試みを進めていきます。平城京には、飛鳥寺をルーツに持つ元興寺や薬師寺などが移転されて「鎮護国家」の拠点道場として国家の統制および保護下に置かれて「官大寺」化され、東大寺や法華寺、新薬師寺などの大寺院も朝廷による支援を受けて次々に建立されていきました。また、全国各地にも国分寺や国分尼寺などを建立し、地方における「鎮護国家」の拠点の整備が進められていきました。
しかし、いつの時代にも共通するのが、ハードを整備してもソフト面を充実させなければ本来の機能を十二分に発揮する事は出来ない、という悩みです。いくら壮大な寺院を建立したところで、ベースとなる経典を揃えて正しく理解し、正しく実践する事の出来る僧侶を育成していかなければ「鎮護国家」という国家政策の実現は不可能です。ですが、このソフト面の充実は当然ながら最も時間と手間がかかる地道な作業であるため、何度も試行錯誤を続けていく事になります。
金堂の左奥に建てられた鐘楼(左)と、金堂の右手前に鎮座する弁天社(右)。
もともとのシステムとしては、僧侶を志す者を師主と呼ばれる僧侶のもとに集めて男性は優婆塞、女性は優婆夷として修行をさせ、その進展の度合いを師主が判断した上で得度させて沙弥・沙弥尼とし、さらに修行を積んで受戒を許された者が比丘や比丘尼となる、という形をとっていました。得度や受戒はそれぞれの教団側が認定を行いますが、その過程では戸籍の確認や僧籍への登録などの手続きをしていかなければならず、実質上は国家の統制下に置かれる制度になっていました。いわば、当初の僧侶は「国家公務員」の側面を持ち、国家の管理下で「鎮護国家」という国家政策に貢献する人材として育成されていたのです。
特に、得度に際しては「年分度者」という制度が設けられており、毎年10人程度の得度者を認定して継続的に国家仏教の担い手を供給していましたが、仏教が盛んになるにつれて人材補強の必要に迫られ、臨時の得度が行われたり、1回の認定者数を拡大して何とかソフト面の充実を図ろうとしていました。聖武天皇の時には1度に2,000人から3,000人もの得度者が認定されるなど、「質より量」を重視した供給体制になり、レベルの低い得度者が大量に生まれる結果となっていきました。この問題の解決に対策を迫られる中で、律令国家はもう一つの難題に直面する事となります。
奈良時代建立の金堂。2009年には「平成の大修理」が完了し、落慶法要が行われました(国宝)。
その問題とは、国家の統制下とは別に、庶民の救済を目的として生まれ発展してきた本来の仏教の目的を果たそうと、広く民衆の救済を志して活動を進める僧侶たちの出現です。こういった僧侶の代表格が行基上人で、日々の生活に苦しむ民衆のために仏教を伝道して心の拠り所を持たせ、各地で道路整備や灌漑施設の整備などの土木工事を進めて人々の生活の充実を目指し、絶大な支持を受けるようになりました。やがてその動きは、仏教を管理下においてコントロールしようという朝廷の政策に反して国家の認定外で活動する「私度僧」であるとして様々な批判や弾圧を受けるようになります。特に、しっかりと修行を積み、志を持って活動する私度僧とは別に、租税免除の特権を受けるためだけに形ばかりの僧侶となる悪質な者も増えた事で社会秩序に乱れが生じていました。
しかしながら、庶民のために精力的に活動する行基上人のような良心の私度僧が地方の豪族や民衆の間で急速に支持を受けて勢力が拡大するにつれ、朝廷も次第にその存在や影響力を無視できなくなり、さらには聖武天皇や皇后・光明子の仏教に対する姿勢なども相俟って、「統制」から「容認」へと大きく仏教政策の転換が行われる事となります。その象徴的な出来事が、743(天平15)年に出された「大仏造立の詔」でした。「一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願刷る者有らば、恣に聴せ」、つまり一握りの草や土を持ち寄ってでも大仏の建立に協力したいという者はどんな身分のものでも受け容れなさい、という内容が含まれたこの詔は、「夫れ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る」と天皇としての自らの権威を誇示しつつも仏教に庶民が関わる事を容認している点で、我が国の仏教政策の転換点を象徴する内容のものといえます。さらに、前述の行基上人に東大寺の盧舎那仏造営への協力を要請して大僧正の位を贈ったという事も、庶民仏教の容認という点で大きな出来事だったといえます。これ以降、朝廷は庶民の仏教勢力を受け容れながら仏教国家のベースの拡充に努めていきます。
こうして日本の仏教はさらなる発展を遂げていきますが、同時に問題となってきたのが前述した僧侶の質の著しい低下で、この解決のために朝廷は正規の受戒体制を整える事で質の向上を図ろうとします。いわば、乱立する資格制度を整理・統合し、正しくてレベルの高い国家資格を整えようとしたのです。そのためには戒律を授ける戒和上、作法を教える教授師、作法を実行する羯磨師の三師と、受戒を証明する7人の尊証師、つまり「三師七証」と呼ばれる僧侶を揃えなければならず、仏教先進国である唐から然るべき高僧を招いて質の高い受戒制度を整え、国家仏教の権威を高めようという動きが具体的に進められていきます。こういった流れの中で日本に招かれたのが、唐招提寺の開祖・鑑真和上でした。
1240年建立の鼓楼(左)と、校倉造で奈良時代建立の宝蔵・経蔵(右)。いずれも国宝指定。
「三師七証」の制度を整え、僧侶の質の向上を目指した朝廷は、第9次遣唐使の一員に興福寺の僧侶・栄叡上人と普照上人を選抜し、唐で仏法修行を行うとともに、授戒に詳しい高僧を日本へ招聘するよう勅命を下します。多大な危険が伴う唐への往還ではありましたが、戒律がもたらされる事で仏教界の改革が実現し、善政が行われることによって世の荒廃を糾し、民の救済を図る事ができればという熱い情熱に突き動かされた2人は、命懸けの航海へと向かいます。
733(天平5)年、2人は波濤を越えて何とか唐へと辿り着きますが、今度は「民の出国を禁ず」という唐の国法が大きな壁となって立ち塞がります。法を破っての密出国には死刑の可能性もあり、まして荒波の藻屑と消える危険性のある日本への渡航を了承する高僧はなかなか見つかりませんでした。それでも高僧を求めて唐の各地を渡り歩いていた2人でしたが、遣唐使の今後の渡航が困難になりそうだという報に接したり、長い年月をかけても実らない招聘活動に対する心労や望郷の念が積もり、何度も挫折しそうになります。しかしながら、微かに残る情熱と使命感を頼りに、さらに唐の地に留まって活動を続けていった栄叡上人と普照上人が、揚州・大明寺で鑑真和上と運命の出会いを果たしたのは742(天平14)年10月。日本を離れてから実に9年目もの月日が過ぎ去っていました。
旧開山堂である本願殿(左)と、その南に立つ1284年再建の東室(右)。
もともと栄叡上人と普照上人は鑑真和上本人の渡航を望んだわけではなく、然るべき資格を持ったその高弟を日本へと招聘しようと考えていました。しかし、唐の国法を破り、遭難する可能性の高い日本への渡航に同意する者はなかなか現れませんでした。この状況を見ていた鑑真和上は、「これは仏法の為である。如何に身命を惜しむ事があろうか。皆が行かぬなら、私自身が日本へと渡ろう」と述べ、憂慮する弟子たちの反対を押し切って日本への渡航を決断します。その決意を受け、21人の弟子たちも日本へと向かうことになりますが、鑑真和上の人徳を惜しんだ唐の第6代皇帝・玄宗はこれを許さず、必然的に日本行きは隠密での行動を採らざるを得ませんでした。
最初の挑戦は翌743(天平15)年春。上海の南にある天台山への参詣を口実にしながら進路を転じて海を渡ろうとしましたが、渡航に対する弟子たちの思惑の違いから仲間割れが起こり、反対派の如海という弟子の密告によって栄叡上人と普照上人は海賊との濡れ衣を着せられて4ヶ月もの間投獄されてしまいます。それでもその冬、微塵も決意の揺るがぬ鑑真和上ともに準備を進めた一行は、頑強な軍用船を入手し、数多くの仏像や経典を積み込み、85名の彫工・石工たちを同乗させて2度目の渡航計画を実行に移します。この時には出航には成功したものの、長江を抜けて外洋に出たところで座礁し、寧波の阿育王寺へと収容されてしまいます。明けて744(天平16)年の事でした。
760(天平宝字4)年頃に建立された国宝指定の講堂(左)と、その北にある食堂址(右)。
同744(天平16)年にはさらに2度出航を試みますが、どちらも鑑真和上の渡日を惜しむ者たちによって密告が行われ失敗、鑑真和上は揚州へと送還されてしまいます。それでも一行は日本行きを諦めず、748(天平20)年には総勢35名にて出航に成功。しかしここで不運な事に暴風雨に遭い、船は黒潮に流されるままに日本とはまったく逆の南西の方向へと漂流。飲料水の欠如に苦しみ、沈没の危機に晒されながら、半月後にやっとの事で中国最南の島・海南島に漂着します。ここでは蛮族に襲撃されますが、食料を奪われたのみで九死に一生を得、捲土重来を期して陸路を辿って揚州への帰還を目指します。この旅は失意の上に厳しい暑さも重なって非常に過酷なものとなり、衰弱した栄叡上人は祖国の地を踏む事なく病死し、長年の無理が祟って眼病を患った鑑真和上は失明してしまいます。さらには師・鑑真和上と行動をともにしてきた高弟・祥彦上人も揚州に辿り着く事なく他界するなど、最も悲惨な結果となってしまいました。
厳しい旅の疲れを癒していた一行のもとに朗報が届いたのは753(天平勝宝4)年。日本から20年ぶりの遣唐使が訪れたのです。遣唐使に任ぜられた藤原清河卿をはじめとする一行は玄宗に謁見、鑑真和上の招聘を改めて願い出ます。この頃には玄宗の態度も軟化していましたが、道教の道士をともに連れて行くならば許可するという条件を出されました。道教を奉じない朝廷の立場からはこの条件は飲めるものではなく、またしても鑑真和上の渡航は水面下で行われる事となりました。翌753(天平勝宝5)年11月、日本へ帰国する遣唐使船にて隠密裏に鑑真和上を乗船させる計画が進められましたが、唐の警戒の厳しさから事の露見を恐れた藤原清河卿は、土壇場で鑑真和上の乗船を拒否し、船から下りる事を命じます。保身ともいえるこの行動に反発した副使の大伴古麻呂卿は、独断で鑑真和上を密かに自らが乗る第2船へと乗船させます。これが大きな運命の分かれ道でした。藤原清河卿の乗る第1船は嵐に遭って遠くベトナムまで漂流、結局その後一行は長安にて客死してしまいます。鑑真和上の乗った第2船は厳しい嵐を乗り越えてその年の12月20日に薩摩国に到着。最初に渡航を決意してから11年、6度目の挑戦での悲願達成となりましたが、すでに鑑真和上は66歳の高齢に達していました。
鑑真和上も飲んだといわれる醍醐井戸(左)と、その隣にある本坊・蔵松院(右)。
薩摩国を発った鑑真和上は平城京へと向かう途中の753(天平勝宝5)12月26日、大宰府・観世音寺に隣接する戒壇院において初めての授戒を行い、翌754(天平勝宝6)年2月4日に念願の平城京入りを果たします。聖武上皇より熱烈な歓待を受けた鑑真和上は東大寺に入り、4月には東大寺大仏殿の前に戒壇院を設けて聖武上皇や孝謙天皇をはじめ400名以上の者に菩薩戒・具足戒を授けました。761(天平宝字5)年には大宰府・観世音寺と下野国の薬師寺に戒壇が設けられ、日本国内で戒律制度が急速に整備されていく事となりました。大僧都に任じられていた鑑真和上は、758(天平宝字2)年には淳仁天皇の勅によって大和上に任じられ、政務の煩わしさから離れて自由に戒律を伝えられるようになります。これには別の説があり、良質な僧侶の育成を目指していた鑑真和上の思いと、税金免除を目的に僧侶となっていた者たちの駆逐による財政好転の思惑を持つ朝廷との間で路線が対立した上の大僧都解任だという意見もあります。
759(天平宝字3)年になって、後進の育成に情熱を傾ける鑑真和上のために平城京の右京五条二坊にあった新田部親王の旧邸宅跡が与えられ、唐招提寺が創建されました。ここに戒壇を設置した鑑真和上は、弟子たちに仏法を教え戒律を授ける傍ら、造詣の深かった医学や彫刻の知識も伝え、悲田院を設立して積極的に貧民救済にも取り組みました。数多くの弟子を育て、人々に愛され慕われた鑑真和上は、苦難の末に日本への渡航を果たしてから10年後の763(天平宝字7)年、惜しまれながらも唐招提寺で入寂されました。唐招提寺の伽藍整備は弟子の如宝上人、孫弟子の豊安上人の代まで続けられました。平安時代には一時衰退しましたが、鎌倉時代の1244(寛元2)年になって覚盛上人が入寺し、復興に尽力されました。1872(明治5)年には真言宗の管轄化に置かれた事もありましたが、1900(明治33)年に独立を果たし、律宗の総本山となりました。近年では、天平の姿を今に伝える金堂の大修理が行われ、2009(平成21)年11月に「平成大修理」落慶法要が営まれています。
1650(慶安3)年に興福寺の別当坊・一乗院の宸殿を移設して建てられた御影堂。
境内の一番奥にある鑑真和上御廟。秋には美しい紅葉に包まれます。
アクセス
・近畿日本電鉄橿原線「西ノ京駅」下車、北東へ徒歩7分。
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【境内図】
拝観料
・大人:600円、中高生:400円、小学生:200円
※御影堂での開山忌、観月会には別に拝観料が必要 (大人:500円、中高生:300円、小学生:200円)
※新宝蔵へは別に拝観料が必要 (大人・中高生:100円、小学生:50円)
拝観時間
・8時30分~17時 (受付は16時30分まで)
公式サイト
新版 古寺巡礼奈良〈8〉唐招提寺 | |
西山 明彦,滝田 栄 | |
淡交社 |