神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・淀川天神社。

2011年10月19日 | ◆大阪府
五穀豊穣・産業繁栄


淀川天神社

(よどがわてんじんじゃ)
大阪市北区国分寺1-4-1





「樋之口町」交差点のすぐ北に鎮座している淀川天神社。


〔御祭神〕
天穂日命
(あめのほひのみこと)



 阪急電鉄「梅田駅」の北から関目までを東西に繋ぐ都島通と、淀川の支流である大川の西を南北に走る天満橋筋が交わる「樋之口町」の交差点のすぐ近くに、小さな神社が鎮座しています。この神社の名前は淀川天神社といい、旧国分寺村の氏神として崇敬を集めてきた神社です。鳥居の脇に伸びる銀杏の木こそ目を惹きますが、それ以外にはこれといった特徴もない、単なる小さな社のように見えます。しかしながら歴史を紐解くと、その創建時期は奈良・東大寺の大仏が造られた天平時代にまで遡るというから驚きです。





鳥居越しに見える、生活感あふれる境内(左)と、一際目を惹く銀杏の木(右)。



 社伝によると、738(天平10)年にこの地を訪れた行基上人が、天照大御神の第2子にあたる天穗日命を勧請して御祭神に定め、祭祀を始めたのが起源だといわれています。すぐ近くには655(斉明天皇元)年頃に創建された長柄寺の流れを汲むといわれる摂津国国分寺があり、この鎮守社として淀川天神社を創建したと考えられます。御祭神である天穗日命は五穀豊穣をもたらす農業神としての顔を持つ事から、秋の実りを守ってくれる神として近隣の住民たちより産土神とされて尊崇されてきました。また、天穗日命菅原道真公のルーツともいわれているため、農耕の恵みをもたらす神を祀る社という意味合いと菅原道真公にまつわる神社という事で「天神社(あまつかむのやしろ)」という名前が付けられたのではないかと思います。





1910(明治43)年に移築された社殿。享保年間(1716~1735年)のものといわれています。



 淀川天神社は、江戸時代の中頃からは東にある正徳寺によって管理されていましたが、明治時代に入ると神仏分離令により独立を果たします。1872(明治5)年には村社に列せられると同時に「天神社」と改称され、さらに1902(明治35)年からは「淀川天神社」という通称名で呼ばれるようになりました。その後、1908(明治41)年10月12日には、東梅ヶ枝町字砂原にあった砂原屋敷(作庭で名高い小堀遠州の邸宅といわれる)の中に祀られていた稲荷社が合祀されています。
 現在の社殿は1910(明治43)年に中島村(今の東淀川区内)の神社から社殿を購入して移築されたもので、建物自体は享保年間(1716~1735年)に建立されたものだといわれています。その翌年の1911(明治44)年5月29日には、祭礼の際に地方自治体より神饌幣帛料の供進が行われる神饌幣帛料供進社に指定されています。先の大戦時には、1945(昭和20)年6月7日と15日の二度にわたって米軍機の爆撃に遭いますが、社殿自体は戦火を潜り抜けて無事に残り、被災した鳥居や玉垣、社務所などは戦後になって再建されています。例祭は7月18日、秋祭は10月25日に行われています。

 



江戸時代中期のものといわれる石燈籠(左)と、東側に立つ石鳥居(右)。


アクセス
・大阪市営地下鉄堺筋線・谷町線「天神橋筋六丁目駅」下車、東へ徒歩5分
・阪急電鉄千里線「天神橋筋六丁目駅」下車、東へ徒歩5分

淀川天神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


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