神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

宇治・宇治神社。

2008年11月13日 | ◇京都府 -洛外
合格祈願・開運

宇治神社

(うじじんじゃ)
京都府宇治市宇治山田1





塔の島から宇治川東岸へと架けられた朝霧橋の向こうに、宇治神社の鳥居が見えます。


〔御祭神〕
菟道稚郎子尊
(うじのわきいらつこのみこと)


 京都の南東に位置する宇治。美しい宇治川の風景は平安時代の頃から貴族たちに愛され、全盛時代の藤原道長卿の「宇治殿(現在の平等院)」が設けられるなど、数多くの貴族がこぞってこの地に別荘を構えていました。また、宇治は紫式部の『源氏物語』の『宇治十帖』の舞台となったことでも有名で、宇治川の東には「宇治市源氏物語ミュージアム」が建てられるなど、平安時代の優雅な恋絵巻の香りを楽しもうと多くの観光客で賑わいを見せています。そんな宇治川のほとり、朝霧橋の東詰に美しい木々に囲まれた古社・宇治神社が鎮座しています。隣接する宇治上神社と並び、『宇治十帖』ゆかりの神社として人々の崇敬を集めています。



 
宇治川のすぐ傍に建つ朱塗り鮮やかな鳥居(左)と、参道の奥に建つ拝殿(右)。


 宇治神社は、応神天皇(八幡大神)の皇子である菟道稚郎子命を祀る神社です。この地は応神天皇の離宮とも関わりがあったといわれ、また菟道稚郎子命の造営した桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)跡ともいわれているため、古くは離宮八幡宮桐原日桁宮宇治離宮明神と呼ばれていたそうです。

 父である応神天皇は、後継者である皇太子の位を実兄である大鷦鶺命(仁徳天皇)でなく菟道稚郎子命と定めますが、菟道稚郎子命大鷦鶺命に皇位継承権を譲って宇治へと隠棲します。大鷦鶺命もこの継承を望まず、譲り合いを重ねて3年もの月日が流れました。その葛藤から、死をもって節を通そうとして菟道稚郎子命はついに宇治川に入水して自ら命を絶ってしまいます。運命に翻弄された悲しい最期を悼んで皇子の邸宅跡にその御魂を祀る社を建てたのが宇治神社の起源だといわれています。宇治神社には、悲運の皇太子を偲び、菟道稚郎子命の等身大の坐像が祀られています。

 宇治エリアの産土神として崇敬されていた離宮八幡宮は、平安時代に平等院が建てられた際には鎮守社とされて藤原氏からのバックアップを受け、繁栄の時代を迎えました。明治維新までは隣接する宇治上神社と2社一体とされ、宇治上神社は「離宮上社」、宇治神社は「離宮下社」と名付けられていました。鎌倉時代に建立された流造りの本殿は国の重要文化財に指定され、毎年6月8日には離宮祭と呼ばれる例祭が行われて田楽や神輿の巡行などが行われています。




宇治神社の社殿。


 御祭神である菟道稚郎子命の伝説をモデルとして描かれたのが、『宇治十帖』で桐壺帝の第8皇子(光源氏の異母弟)として登場した「八の宮」です。東宮時代の冷泉帝を廃して八の宮を担ごうとする陰謀に巻き込まれ、さらに出産がもとで最愛の妻をも失った八の宮は、都の邸宅を火事で焼失したことも重なって、世を儚み宇治に隠棲して仏教に傾倒していました。同じく出生の秘密に悩み、世を儚む薫君が宇治の八の宮邸を訪れ、その人柄と信心の厚さに感銘して親交を重ねるところから『宇治十帖』は始まります。




朝霧橋から見た宇治川上流の風景。平安の昔から変わらぬ静かな時が流れています。


アクセス
・京阪電車「宇治駅」より南へ徒歩約5分
・JR「宇治駅」より東へ徒歩約13分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放







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