喜多向稲荷神社
(きたむきいなりじんじゃ)
西宮市松原町11
漢織・呉織伝承の旧蹟
菅原道真公が大宰府への旅の途中に立ち寄ったともいわれています。
〔御祭神〕
織姫大明神
昨日ご紹介した松原天満宮のすぐ南に、小さなお社があります。マンションや公園の狭間にポツンと佇んでいるため、うっかり見落としたり松原天満宮の飛び地境内かと勘違いする方もいらっしゃるかもしれませんが、喜多向稲荷神社という名を持つお社にも様々なストーリーが残されているのです。小社といって侮るなかれ、ですね。
俳人・小沢種春が詠んだ「千代もなを 残すみどりの色深く 綾はの松に染殿の池」の句碑(左)は、
朱鳥居が数多く立ち並ぶ参道の脇にあります。
松原天満宮の記事でも述べましたが、このあたりは「都努の松原」と呼ばれる白砂青松の海岸で、入り込んだ入江によって天然の良港「務古水門」として栄えた土地です。大和朝廷は、大陸から様々な技術者を積極的に日本に招き、先進の技術を取り入れようと活発に交流を重ねていました。その中には、今回ご紹介する「漢織・呉織」という機織の技術者たちもいました。日本書紀には、漢織(あやはとり)と呉織(くれはとり)について、「武庫の水門に着き池田の里に至る」と記されており、務古水門が古くから大陸との交流のある港であったことがわかります。
短いながらも朱鳥居に彩られた参道の先に、社名の通り北向きに建てられた社殿があります。
ここの言い伝えでは、漢織と呉織は、応神天皇の勅命を受けて大陸に渡っていた阿知使主(猪名津彦命ともいわれる)に連れられて日本に渡ってきた工女だといわれています。このとき渡ってきたのは兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織・漢織とよばれる4名の工女で、一行のうち兄媛は胸形明神(むなかたみょうじん)の要請によって九州・筑紫潟の地に留まります。そのほかの工女たちは、長い航海の末に務古水門に到着しました。そのとき船を繋いだ松を「漢織呉織の松」といい、その木の下の池の清水を汲んで糸を染め、機を織ったためこの池のことを染殿池と呼ぶようになりました。これらの言い伝えは「染殿町」「津門綾羽町」「津門呉羽町」などの地名に残され、古代の薫りを今に伝えています。喜多向稲荷神社自体、いつ頃から祀られているのかは明確には分かりませんが、地名にまで残すほど漢織と呉織への思いを持つこの地域の人々が、その遺徳を偲ぶために祭祀を始めたのが起源だと考えると、なかなか長い歴史を持つ神社ではないかと思われます。
境内の南側にある松原公園に、小さくなった染殿池(左)が残されています。
阿知使主は応神天皇20年に日本に渡来、帰化人となった人物で、倭漢直の祖先といわれています。漢織と呉織に関する伝説には、「漢」「呉」という字から中国大陸の呉国から来たという話が多いのですが、実際のところ、倭漢直は朝鮮半島の帯方郡から渡来した一族であるとの説が強いことから、やはり阿知使主が自分の出身地である朝鮮半島から連れてきた機織技術者だったと見るのが正しいのではないでしょうか。帯方郡は漢帝国の影響が強かったことから「漢」の字が使われたのかもしれません。
アクセス
・阪神電車「西宮駅」下車、東へ徒歩10分
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拝観料
・無料
拝観時間
・常時開放
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