大雲山 龍安寺
(だいうんざん りょうあんじ)
京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
龍安寺の総門。「きぬかけの道」を挟んだ南側の住宅街の中にあります。
〔宗派〕
臨済宗妙心寺派
〔御本尊〕
釈迦如来像
(しゃかにょらいぞう)
清水寺や金閣寺など、京都には、観光客が一度は訪れてみたいと願う憧れの史跡が数多くあります。そのような史跡の一つに、「石庭」で有名な龍安寺があります。石庭は、東西25m・南北10mほどの空間に白砂を敷き詰めて大小15個の石を並べただけの、飾り気のない非常にシンプルな庭です。しかし、その単純さゆえに底知れぬ奥の深さが感じられるこの庭に魅せられる人々は引きもきらず、洋の東西を問わず大変多くの人々が龍安寺を訪れ、方丈から眺めるこの景色に心を奪われていきます。
山門(左)と参道(右)。菱形に組まれた竹垣は「龍安寺垣」と呼ばれています。
京都の北にゆったりとした姿を見せて佇む衣笠山。真夏に雪見がしたいと欲した宇多天皇のために白絹をかけて白く染めたという故事から、「きぬかけ山」という別名でも呼ばれている標高201mのこの山の麓には、金閣寺や仁和寺などの古刹が軒を連ねています。その一角、983(永観元)年に円融天皇が円融寺を築き、平安末期にその寺跡に藤原北家の血を引く貴族・藤原(徳大寺)実能卿が山荘・徳大寺を築いたこの地に、室町幕府の要職「管領」の地位にあった守護大名・細川勝元公が建立した禅刹が龍安寺です。
1450(宝徳2)年に創建された龍安寺は、細川勝元公が深く帰依していた妙心寺第5世住持・義天玄承禅師を開山に迎えて開かれました。義天玄承禅師は寺域の整備に尽力した実質的な開山でしたが、開山の名誉を師である日峰宗舜に譲って勧請開山とし、自らは第2世住持となりました。残念ながらこの時創建された伽藍は、創建した張本人である細川勝元公が山名宗全公と激しく対立して引き起こした応仁の乱の兵火によって1467(応仁元)年に全焼、翌年には洛中に移転されてしまいました。
世界的に有名な石庭。作庭者や創建時期など数多くの謎に包まれています。
その後龍安寺は、1488(長享2)年に細川勝元公の息子である細川政元公の支援を受けた特芳禅傑禅師を中興開山に現在の地に再興され、細川家の菩提寺として伽藍の整備が行われました。最盛期には21もの塔頭が軒を連ねる大寺院に発展した龍安寺には1588(天正16)年に豊臣秀吉公も訪れ、美しい糸桜を愛でたといわれています。寺領の寄付を受けるなど、時の為政者から庇護を受けて寺勢を保っていた龍安寺ですが、1797(寛政9)年にはまたも火災によって方丈や開山堂、仏殿など主要な建物を失う大ダメージを受けました。火災後、1606(慶長11)年に建てられていた塔頭・西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、庫裏も同じ頃に再建されるなど復興が進められました。
方丈北側の庭園(左)と水戸光圀公が寄進した「知足の蹲」の複製(右)。
1954(昭和29)年に国の特別名勝に指定された石庭方丈庭園については、室町時代に相阿弥が作庭したという説が伝えられていますが、中興開山である特芳禅傑を中心とした禅僧の手による作庭だという説もあり、さらには1780(安永9)年に出された「都名所図会」には現在の姿とは異なる庭園(←リンク先:国際日本文化研究センター)が描かれているなど、いつ誰が何を意図して作ったものなのか、はっきりした事は分かっておらず、多くの謎に包まれています。「虎の子渡しの庭」とも呼ばれるこの庭には、方丈から向かって左から5石・2石・3石・2石・3石の5つの群に組まれた大小15個の石が並べられています。「15」は満月の「十五夜」に通じ、完全を表す数字とも言われていますが、「万事、完全な姿となったときが崩壊の始まり」という思想があることから、どの角度から見ても1つは隠れて見えない石が出来るというこの石庭の組み方は、わざと不完全な姿を表現しようとする意図があるとも言われています。
湯豆腐を愉しめる西源院(左)と、徳大寺家の山荘の頃に造られた鏡容池(右)。
アクセス
・京福電鉄北野線「龍安寺駅」下車、北へ徒歩7分
・京都市バス59系統「龍安寺前」バス停下車すぐ
龍安寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・大人500円 小・中学生300円
拝観時間
・3月1日~11月30日:8時~17時
・12月1日~2月末日:8時30分~16時30分
※平成21年1月5日~2月1日までは、老朽化した方丈の修理のために一般の拝観が中止されています。
また、拝観が再開されたのちも引き続き1年ほど屋根の修理が続けられる予定ですので、参拝を予定されている方はご注意ください。
公式サイト
大雲山龍安寺公式サイト