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神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・吉志部神社(吹田市)。

2008年05月24日 | ◆大阪府


吉志部神社

(きしべじんじゃ)
大阪府吹田市岸部北4-18-1





この鳥居をくぐった奥深い参道の向こうに境内が広がります。


〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
豊受大神
(とようけのおおかみ)
ほか6神


 吉志部神社の創建年代は明らかではありませんが、6世紀末から7世紀初頭にかけて朝鮮半島より渡ってきた難波吉士氏(なにわのきしし)が、本拠地として勢力を伸ばしたこの地に祖霊神を祀って一族の守護神社としたことに始まるといわれています。一方、社伝では祟神天皇の治世であった紀元前41年に大和国の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)から神を分霊して祀った祠が始まりだとされています。諸説ありますが、少なくとも平安時代にはここ紫金山の地に天照大御神などを祀る祠があったのは確かなようです。




 
緑豊かな静かな杜の中を伸びる参道(左)と、石段を登った先に建つ神門(右)。



 吉志部神社の本殿には、天照大御神豊受大神を中心に、左に八幡大神素盞嗚大神稲荷大神、右に春日大神住吉大神蛭子大神が祀られており、御祭神の数にちなんで「八社明神」と呼ばれたり、天照大御神豊受大神を一対に数えて「七社明神」と呼ばれていたそうですが、当初の名称は「太神宮(だいじんぐう)」で、吉志部5ヶ村の産土神として崇敬を集めていました。1870(明治3)年に神仏分離令が出されたのを機に、吉士氏の本拠地であることを表す地名の「岸部」にちなんで「吉志部神社」という社名に変更されました。





この社殿は覆屋で、その中に国の重要文化財に指定されている本殿がありました。
※2008(平成20)年5月23日の火災で全焼する前の貴重な姿


 応仁の乱の兵火に巻き込まれて応仁年間(1467~1477年)に社殿が全焼してしまった吉志部神社は、1610(慶長15)年になって三好長慶公の次男で吉志部姓を名乗っていた吉志部一次公によって再建されました。社殿は豊臣秀吉公が建立した方広寺大仏殿の余材を用いて建てられた桃山時代の作風が色濃く伝わるもので、柱と柱の間が7つある七間社流造の非常に珍しい造りの社殿でした。1833(天保4)年には社殿を包み込むように覆屋が建てられ、大正時代には拝殿や幣殿などが建てられましたが、国の重要文化財にも指定されていたこの社殿は、残念ながら2008(平成20)年5月に放火と見られる火事で全焼してしまいました。




 
社殿の右に並ぶ摂社。愛宕大神や大国主命などを祀る摂社(左)や大川神社など(右)。



 「吉志部の里」と呼ばれたこの一帯では粘土質の焼き物に適した土が多く産出され、6世紀から7世紀にかけて須恵器が多く焼かれていました。794(延暦13)年に平安京への遷都が行われた際には内裏や皇族・貴族の邸宅など数多くの建物が建てられたため、短期間に大量の瓦が必要となりました。その爆発的な需要に応えるために各地に窯が設置されましたが、古くから窯業の生産拠点として栄えていた吉志部神社でも窯が整備されて次々と瓦や器が生産され、水利を利用して都へと輸送されていきました。現在発掘されているだけでも9基の平窯と4基の登窯の存在が確認されており、「吉志部瓦窯跡(きしべがようせき)」として国の史跡に指定されています。




 
7世紀初め頃に須恵器を焼いていたとされる「吹田34号須恵器窯跡」。


アクセス
・JR京都線「岸辺駅」下車、北西へ徒歩20分
・阪急電車京都線「正雀駅」下車、北西へ徒歩25分
吉志部神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放





大阪・南宗寺(堺市)。

2008年05月21日 | ◆大阪府


龍興山南宗寺

(りゅうこうざん なんしゅうじ)
大阪府堺市堺区南旅篭町3丁1-2



1647(正保4)年に建立された山門である「甘露門」。国の重要文化財に指定されています。


〔宗派〕
臨済宗大徳寺派

〔御本尊〕
釈迦三尊像
(しゃかさんぞんぞう)



 南北朝時代の頃から南朝方の交易港として整備され、室町時代には日明貿易の拠点のひとつとして栄えた港湾都市・。戦国時代には国内に比類なき莫大な経済力を誇る国際自由貿易都市として、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラルイス・フロイスらが揃って「東洋のヴェニス」と評するほどの繁栄を見せましたが、織田信長公や豊臣秀吉公などの統治の時代を経て幾度かの兵火に巻き込まれるうちに次第にその輝きを失っていきました。

 今では、長い年月の間に進んだ埋立てや都市開発のために当時の海岸線や町並みはほとんど失われてしまいましたが、そんな中でも当時の繁栄の残り香を湛える史跡がいくつか残されています。堺第一の禅宗寺院として、また茶の湯の道を深める道場として、数多くの武将や茶人に愛された南宗寺もそういった史跡のひとつです。



 
境内最古の建物である坐雲亭(左)と、喜多見若狭守勝重公の位牌堂である夢界堂(右)。


 1526(大永2)年のこと。京都・大徳寺の76世住職を務めていた古嶽宗亘上人が、堺の南ノ庄にあった小さな坊院を訪れて南宗庵と名付けました。ここで古嶽宗亘上人の教えを受け、のちに大徳寺の住職にまでなった大林宗套上人は、1548(天文17)年に亡き師の遺言に従って堺へと戻り、この南宗庵に入りました。その大林宗套上人に帰依していた三好長慶公は、父の菩提を弔うための寺院を建立しようと発願し、1557年(弘治3年)に南宗庵を移転させて大規模な伽藍を整備し、大林宗套上人を開基とする禅刹・南宗寺を創建しました。



 
千利休をはじめとする千家一門の墓(左)と、三好長慶公をはじめとする三好一族の墓(右)。


 南宗寺は1574(天正2)年の松永久秀公による争乱や1615(慶長20)年に起きた大阪夏の陣の戦火に巻き込まれて悉く灰燼に帰してしまいましたが、南宗寺の12世住職を務めていた沢庵宗彭和尚や堺奉行所の喜多見若狭守勝重公が復興に尽力し、1619(元和5)年に無事に現在地に再建されました。その後13世住職となった清巌宗渭和尚は1647(正保4)年に「甘露門」と呼ばれる山門を造営、1652(承応元)年には仏殿の建立に着手するなど伽藍の整備に努めました。現在の境内はこの頃に整えられたといわれています。さきの大戦の際に受けた空襲によって伽藍の一部を焼失してしまいましたが、茶室や方丈は無事再建されました。



 
枯山水の方丈庭園(左)と千利休好みの茶室「実相庵」(右)。


 南宗寺には枯山水の方丈庭園があります。この庭は、戦国時代の武将で茶人としても有名だった古田織部公好みの作風といわれており、1983(昭和58)年に国の名勝庭園に指定されています。その奥には見事な石組みの「曹渓の庭」がありますが、ここに敷き詰められた那智黒石に竹筒を近付けて耳を澄ませると、地中にて水滴が織り成す美しい音色を愉しむことが出来ます。曹渓の庭に隣接して建つのが千利休好みの茶室として1963(昭和38)年に再建された「実相庵」です。



 
東照宮跡碑(左)と、大坂夏の陣で討死した際に葬られた徳川家康公の墓碑だという伝説のある墓石(右)。


 南宗寺には、徳川家康公をめぐる不思議な伝説が残されています。大阪夏の陣の折に真田幸村公の軍勢に本陣近くまで猛烈に攻め込まれた徳川家康公は、大坂方の猛将・後藤又兵衛公の槍に突かれて重症を負い、敗走する途中にこの南宗寺で力尽きて落命したといわれています。この時には側近のごく少数の家臣のみが雨中の境内にて密かに葬儀を行い、小さな墓碑を建てて菩提を弔ったという話も残されています。東照宮跡碑の西にある開山堂跡地に建てられている小さな墓石がその伝説の墓標だといわれていますが、1623(元和9)年に第2代将軍・徳川秀忠公や第3代将軍・徳川家光公がわざわざ南宗寺まで参詣したという史実を聞くと、この伝説を荒唐無稽な話と一笑に付すのではなく、ついつい少し信じてみたい気になってしまいます。



 
国の重要指定文化財に指定された仏殿(左)には御本尊・釈迦三尊像が祀られ、
天井には狩野信政の筆による見事な「八方睨みの龍」(右)が描かれています。




アクセス
・阪堺電気軌道阪堺線「御陵前駅」下車、東へ徒歩5分
 南宗寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人400円(中高生300円・小学生以下200円)

拝観時間
・9時~16時



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大阪・服部天神宮(豊中市)。

2008年04月10日 | ◆大阪府
健脚の神さま・学業成就・商売繁盛

服部天神宮

(はっとりてんじんぐう)
大阪府豊中市服部元町1-2-17

阪急沿線三天神めぐり





〔御祭神〕
少彦名命
(すくなびこなのみこと)
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)



 古代、中国大陸や朝鮮半島からは戦乱を避けるためなど様々な理由で日本に渡ってきた人々がいました。百済から渡って飛鳥に根をおろした阿知使主を始祖とする東漢氏(やまとのあやうじ)、『論語』や『千字文』を伝えた王仁を中心に河内国に本拠を構えた西文氏(かわちのあやうじ)弓月君を始祖として山城国を本拠地に各地へ勢力を伸ばしたした秦氏(はたうじ)など多くの人々が日本へ渡来し、帰化していきました。秦氏は『日本書紀』では百済から来た氏族だと記述されていますが、最近の研究では新羅系だという説が有力になっています。




鳥居をくぐると、「健脚祈願」の幟と提灯が迎えてくれます。



 土木開発や養蚕、機織りなどに高い技術を持っていた秦氏は、5世紀前半の允恭天皇の頃に「機織部」に任じられるなど大和朝廷の中で様々な役割を果たしていました。そんな秦氏が定住したことから、この地には「機織(はたおり)」が転じて「服部(はっとり)」という地名がついたといわれています。服部の地に根を下ろした秦氏は、自分たちが信仰していた少彦名命を祀る小さな祠を建てました。これが服部天神宮の始まりといわれています。




境内にある豊中えびす神社。



 時代は下って平安時代のこと。藤原四兄弟の中のひとり、藤原房前卿の五男として生まれ、称徳天皇の強力な後押しによって皇位を狙ったという説のある弓削道鏡を排除したことでも知られる藤原魚名卿は、光仁天皇桓武天皇の厚い信任を得て左大臣の要職にあった藤原魚名卿は、782(延暦2)年に氷上川継の乱に関与したという濡れ衣をかけられ、無実の罪で大宰権帥として左遷されてしまいました。

 失意のうちに西へと向かった藤原魚名卿は、服部の地にさしかかったところで病に倒れます。この報に接し藤原魚名卿を不憫に思った桓武天皇は、罪を赦して京都へ戻ることを許しましたが、重篤な状態の藤原魚名卿は服部から動くことが出来ずにそのままこの地で亡くなりました。亡骸は少名彦命を祀る祠のすぐ傍に丁重に葬られました。




少彦名命を祀る社殿。朱色が鮮やかです。



 藤原魚名卿の非業の死から1世紀以上経った901(延喜元)年、同じように讒言によって太宰府へと無念の旅を続ける貴人がこの地を訪れます。無実の罪で左遷された菅原道真公は大宰府への道の途中、服部に差し掛かったところで持病の脚気が悪化して歩を進めることが出来なくなりました。これを聞いた地元の人々の勧めに従って「医薬の神さま」としても知られる少名彦命の祠に参拝した菅原道真公は、祠の脇に自分と同じ境遇に陥ってこの地で斃れた藤原魚名卿の塚があることを知ります。今の自分の姿を重ね合わせ、その悲運に大いに同情した菅原道真公は、その冥福を祈って懇ろに供養を行ったといいます。少名彦命藤原魚名卿の霊験によって脚気が全快した菅原道真公は、無事に大宰府まで辿り着くことが出来たといわれています。

 その後、全国的に高まった天神信仰を受けて菅原道真公が祀られるようになり、この時期から「服部天神宮」と呼ばれるようになりましたが、脚気が全快したという伝説に因んで「足の神様」として厚い崇敬を集めるようになりました。江戸時代、服部能勢街道の宿場町として発展しましたが、脚気の全快や無事に旅を続けられることを祈願する人々で服部天神宮は大いに賑わいをみせました。




菅原道真公の坐像。




アクセス
阪急電車宝塚線「服部駅」下車、東へ徒歩2分
阪急バス9・10・13・63・160系統「服部」バス停下車、徒歩2分
服部天神宮地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
無料

拝観時間
常時開放

公式サイト
  足の神様・服部天神宮のホームページ



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大阪・神津神社。

2007年08月15日 | ◆大阪府
厄除け・殖産興業・学問成就

神津神社

(かみつじんじゃ)
大阪市淀川区十三東2-6-39



十三の駅前商店街を抜けた先に鎮座しています。

〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
神功皇后
(じんぐうこうごう)

住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
宇賀御霊神(うかのみたまのかみ)
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
少彦名神(すくなびこなのかみ)
猿田彦神(さるたひこのみこと)


  
 大阪の中心地・梅田の西、淀川の西岸にある町である十三(じゅうそう)は、歓楽街とビジネス街の2つの顔を持つ町です。阪急電車十三駅周辺には飲食店や風俗店などが並んでいますが、少し駅から離れると武田薬品工業ダイヘン江崎グリコなどの企業が集まっています。また、淀川区役所もすぐ東にあるなど淀川区の行政の中心地としての顔も持っています。

 難読地名である「十三」の由来ですが、広大な流域を持つ淀川には昔から数多くの渡し場があり、上流にあった淀の渡し場から数えて13番目の渡し場があったから十三と名付けられたという説や、この辺りが西成郡といわれていたころ、郡の南端を起点に数えると、ちょうどこのエリアが十三条になるために十三と呼ばれたという条里制由来説などがあるそうです。
 




朱塗りの鮮やかな社殿。



 神津神社は戦国時代末期の天正年間(1573~1592)に摂津国西成郡小島村に八幡大神を勧請して創建されました。創建当初は「正八幡宮」と呼ばれており、小島村にあったことから「小島八幡」とも呼ばれていたようです。その後、文禄年間と文延宝年間に再建、1710(宝永7)年にも社殿の再建が行われました。

 明治に入り、1889(明治22)年4月に神崎川中津川の間にあった西成郡小島村堀村木川村堀上村野中村新在家村今里村三津屋村の8つの村が大阪市に編入された際、神崎と中津から一文字ずつとって神津村が生まれました。それらの村々に鎮座していた神社を1909(明治44)年に小島八幡に合祀し、新しい地名から神津神社という名が付けられました。





境内摂社、六所神社と山之稲荷神社。



 1909(明治44)年に合祀された神津村の旧地域の御祭神は、境内にある六所神社に祀られています。天照皇大御神天児屋根神姫大神武甕槌神経津主神事代主神の6柱の神々が祀られており、その隣には山之稲荷神社があります。





十三戎神社



 社殿手前に鎮座する十三戎神社は戦後勧請されたものです。「十三」が「とみ」に通じるということから、商売繁盛で富をもたらす「えべっさん」であるということで商店街をはじめ、多くの人々の崇敬を集めています。毎年1月9日から11日までの3日間は「十三戎(とみえびす)」で盛り上がり、11日には獅子舞の奉納も行われます。




社殿脇には宇賀御霊神を祀る福永稲荷神社があります。



アクセス
・阪急電車「十三駅」下車、東へ徒歩5分
 神津神社地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

大阪・泉殿宮(吹田市)。

2007年07月25日 | ◆大阪府
泉の如く「力」湧き出る 厄を追い払い運を開く

泉殿宮

(いづどのぐう)
大阪府吹田市西の庄町10-1





〔御祭神〕
宇迦之御魂大神
(うかのみたまのおおかみ)
建速須佐之男大神
(たけはやすさのおのおおかみ)

住吉大神(すみよしたいしん)
春日大神(かすがたいしん)
天香山命(あめのかぐやまのみこと)



 吹田市役所の北、阪急吹田駅から歩いてすぐのところに大きな看板の立つ神社があります。国道479号線と大阪府道14号線が交わる近くにあるので、自動車で通る方も見かけたことがあるのではないでしょうか。この神社は泉殿宮。1000年以上の長い歴史を誇り、北に隣接するアサヒビールさんとも深い繋がりを持つなど、非常に興味深いエピソードの宝庫です。




拝殿には宇迦之御魂大神と建速須佐之男大神が祀られています。



 日本神話の中で、高天原より降臨した瓊瓊杵尊とともに葦原の中つ国(地上)に降り立った天香山命の末裔とされる吹田連(すきたのむらじ)。史料によっては次田連とも呼ばれるこの一族が、勢力を保っていた河内国から淀川を遡って吹田に移住し、この地に五穀豊穣の神さまである宇迦之御魂大神を祀ったのが泉殿宮の始まりとされています。




伝説の泉殿霊泉が社殿の左脇に残されています。



 源氏の始祖でもある清和天皇の治世の869(貞観11)年、全国的に日照りが続いて疫病が流行するなど世情が大変乱れました。これを憂いた清和天皇は、播磨国にある広峯神社から御祭神の建速須佐之男大神を勧請して八坂神社を建立し、王城鎮護の守護神とすることで事態の収拾を図ろうとしました。

 神輿は京都に向かう途中で吹田を訪れ、しばらくのあいだ泉殿宮に滞在されました。この地も日照り続きで、氏子たちも旱魃に苦しんでいたため、建速須佐之男大神を社殿にお祀りして雨乞い祈願を行いました。この効果はてきめんで、たちまち雨が降り清泉が湧き出して田畑を潤したといわれています。このときの雨を喜ぶ童子たちの姿をベースに伝承されているのが、吹田市の地域無形民俗文化財に指定されている「泉殿宮神楽獅子(いづどのぐうかぐらじし)」だそうです。




天保年間に作られた地車を社殿にした地車戎神社。



 大化の改新天智天皇を支えた藤原鎌足の次男・藤原不比等の4人の息子たちを始祖とした南家北家式家京家藤原四家泉殿宮では、このうちの藤原南家の末裔である宮脇氏が代々宮司を務めていました。

 しかし、天保の大飢饉に端を発して起きた1837(天保8)年の大塩平八郎の乱の際、時の宮司・宮脇志摩大塩平八郎の叔父にあたることから首謀者の一人であるという容疑をかけられて泉殿宮は包囲されます。宮脇志摩は切腹して果て、残された子どものうち男児は全て島流しにされたうえに家門は闕所となって財産を全て没収されるという厳しい処分を受けたことで、泉殿宮も存続の危機を迎えます。

 それから30年ほど後に明治維新が起こり、これにともなって島流しにあっていた子孫たちも赦免され、再び宮脇志津摩氏が第33代宮司となって泉殿宮は復興されました。ちなみに、現在の宮司さんは阪神・淡路大震災の直前まで神戸の生田神社におられたそうです。




大国主命・神産巣日大神・奇稲田姫神が祀られている摂社です。



 貞観年間の雨乞いの際に霊験によって湧き出したといわれる泉殿霊泉。ここから湧き出る清水の水質は非常に優れ、1889(明治22)年には本場ミュンヘンでビール醸造に最適だという高い評価を受けました。この清水に着目した大阪麦酒会社が1891(明治24)年に吹田村醸造所を建設、翌年に誕生したのが「アサヒビール」です。こうしてアサヒビールの創成期を支えた水脈も、昭和30年代には惜しくも枯れてしまいましたが、境内には泉殿霊泉の遺構が残されています。

 このほかにも境内には、1970(昭和45)年に行われた日本万国博覧会泉殿宮が地鎮祭や立柱祭など全ての祭事を執り行ったことを記念し、当時の祭事で使用された元柱(もとつはしら)が祀られています。




大きな看板が目印です。



アクセス
・阪急電車「吹田駅」下車、北へ徒歩2分
・JR「吹田駅」下車、南西へ徒歩8分
 泉殿宮地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
 泉殿宮公式サイト

大阪・安倍晴明神社。

2006年09月25日 | ◆大阪府
方除け・火災除け・病気平癒・子授け安産・縁結び



(あべのせいめいじんじゃ)
大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16



境内の前を通る道はかつて熊野詣の参詣客が通った街道です。


〔御祭神〕
安倍晴明公
(あべのせいめいこう)



 安倍晴明神社は、大阪・天王寺から路面電車に乗ること4駅目、阪堺電車上町線「東天下茶屋駅」から歩いてすぐのところにある神社です。その名のとおり陰陽師・安倍晴明公をお祀りしている神社で、約600㎡ほどの緑あふれる神社です。『安倍晴明宮御社伝書』よると、1005(寛弘2)年に85歳の天寿を全うした安倍晴明公の死を悼んだ一条天皇が、生誕の地に安倍晴明公を祀ることを子孫に命じ、没後2年たった1007(寛弘4)年に建立されたのが安倍晴明神社であると記載されています。現在は、すぐ南にある阿部王子神社によって管轄されています。




現在の社殿は1925(大正14)年に再建されたものです。



 安倍晴明公誕生の地に関してはいくつか説がありますが、大膳太夫を務めた安倍益材公の子として摂津国阿倍野の地で生まれたという説が最も有力です。安倍益材公は、第8代孝元天皇の皇子・大彦命(おおびこのみこと)をルーツとして古くから摂津国阿倍野を支配していた阿部氏の末裔です。
 



安倍晴明公が産まれたとき使用した産湯の井戸を再現した「安倍晴明公産湯井の跡」。



 いくつかの支族に分裂しながら勢力を拡大していった阿部氏の中で、「布施臣」を率いる阿部御主人(あべのみうし)は壬申の乱の時に大海人皇子(天武天皇)側について功績を挙げ、大宝律令下で初めての右大臣に任命されるなど大活躍しました。その阿部御主人安倍晴明公のご先祖といわれています。ちなみに、「阿部氏」を「安倍氏」に改めたのは平安時代初期のことだといわれています。




境内に入ってすぐ右手にある泰名稲荷。


 鳥居をくぐった右手にあるのが、摂社の秦名稲荷神社です。安倍晴明公の父といわれている安倍保名公と同じ名前ですが、とくに保名公と関係はないそうです。安倍晴明神社の境内には狐の化身といわれていた晴明公の母親・葛葉姫が信田の森から飛来してくる姿をイメージした「葛の葉霊狐の飛来像」が祀られています。




2005(平成17)年に行われた安倍晴明公一千年祭のときに建立された銅像。



アクセス
・阪堺電車上町線「東天下茶屋駅」下車、東南へ徒歩5分
 安倍晴明神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
 安倍晴明神社 Web Site


安倍晴明伝説 (ちくま新書)
諏訪 春雄
筑摩書房

大阪・天神森天満宮。

2006年07月31日 | ◆大阪府
学業成就・安産

天神森天満宮

(てんじんのもりてんまんぐう)
大阪市西成区岸里東2-3-19



学問の神さま、安産の神さま。静かな住宅街の中にあります。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)



 大好きな神戸のまちで人生の大半を過ごしてきましたが、誕生の瞬間は大阪・十三の地。そして生後しばらくのあいだは阿倍野で過ごしていました。そんな私にとって、この地を訪れるのは何十年ぶりかのこと。その地でみつけた「天神ノ森」という地名に興味をおぼえて住宅街を歩いていたところ、夏祭に備えてか何処からともなく和太鼓の響きが聞こえてきました。その音に惹かれるようにしてたどり着いたのが、天神森天満宮です。

 天神森天満宮は、菅原道真公が無実の罪で左遷され大宰府へと向かう道行きの途中、住吉大社へ参拝する際にこの地で休息をとられたという故事にちなんで村人たちが祠を建てて祀ったのが最初だといわれています。14世紀から15世紀初頭にかけての応永年間(1394-1428年)には京都・北野天満宮よりご分霊を勧請したといわれています。また、ここは千利休の茶の湯の師匠としてその名を知られる武野紹鷗ゆかりの地でもあり、紹鷗森天満宮とも呼ばれています。




1937(昭和12)年に再建された拝殿。本殿は1702(元禄15)年のものです。



 武野紹鷗は、1502(文亀2)年に武田信久の長男として生まれます。文武両道に秀で、青年の頃は武野新五郎と名乗って仕官をしていたこともありましたが、戦乱の世を嫌って武士の身分を離れ、侘び茶の祖といわれる村田珠光の弟子・藤田宗理に茶の湯を、そして三条西実隆に歌道を学びます。師匠・藤田宗理も驚くほど茶道の才能に恵まれた武野新五郎は、やがて村田珠光の嫡男・村田宗珠に認められることとなり、惜しむことなく秘伝を伝承されたそうです。

 1532(享禄5)年、31際を迎えた武野新五郎は世俗を棄てて茶の道に生きることを決意、出家して武野紹鷗と名乗ります。このとき「種まきておなじ武田の末なれど荒れてぞ今は野となりにける」という歌を詠んで姓を武田から武野に変えたのは有名な話です。

 堺に戻って父の皮革問屋を相続した武野紹鷗は、卓越した商才を揮って堺を代表する豪商として活躍しますが、次第に経営を優秀な番頭たちに任せて、ひたすら茶道の発展と門人の育成に尽力するようになります。千利休武野紹鷗の薫陶を受けた門人の一人でした。




拝殿左にある摂社。天照皇大神・倉稲魂大神・猿田彦命が祀られています。



 男児に恵まれなかった武野紹鷗に待望の嫡男・武野信村が誕生したのは1550(天文19)年のこと。これに喜んだ武野紹鷗は、クスノキに覆われ茶の湯に適した名水の湧くこの地に記念の茶室を建て、風月を友として暮らすようになります。

 また、長男誕生の神仏への感謝の気持ちもあってか、武野紹鷗住吉街道の整備にも尽力します。そのころ大坂の中心地から住吉大社へ向かう住吉街道は、この近辺の森のために迂回せざるを得ない状況でしたが、武野紹鷗は私財を投じて森の開削工事を行い、街道の貫通工事を成し遂げたといいます。







 拝殿の東南には子安天満宮があります。この石は孕石(はらみいし)とも呼ばれ、昔から安産の神さまとして地元の方々に祀られてきたそうです。淀君が懐妊されたとき、豊臣秀吉公が参拝して安産を祈願し、無事に豊臣秀頼公が誕生したことから感謝の意をこめて社地として1町四方の土地が寄進されたそうです。

 ちなみに、この付近の地名「天下茶屋」は、堺政所(のちの堺奉行所)への道の途中この地の茶室で休息をとった豊臣秀吉公が、天満宮周辺の風景の美しさをたいそう褒められたことから、「太閤殿下の茶屋」→「天下茶屋」と呼ばれるようになったそうです。




天下茶屋あだ討ち供養塔。



 西の鳥居の脇には、1609(慶長19)年に備前国の武士・林源次郎が、天満宮南の住吉街道沿いにあった「出口橋(別名:くやし橋、残念橋)で父と兄の仇である当麻三郎衛門を討って本懐を遂げたという仇討ち事件ののち、街道沿いに建てられていた供養塔が移設され、祀られています。



アクセス
・阪堺電車「天神ノ森駅」下車、西へ徒歩2分
・南海電車高野線「岸里玉出駅」下車、北東へ徒歩3分
 天神森天満宮地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

和泉・泉井上神社。

2006年05月23日 | ◆大阪府


泉井上神社

(いずみいのうえじんじゃ)
大阪府和泉市府中町6-2-28



泉井上神社の南側に建つ鳥居。この正面に和泉五社総社があります。


〔ご祭神〕
-泉井上神社-
和泉大明神
(いずみだいみょうじん=独化天神
神功皇后 ・ 仲哀天皇 ・ 応神天皇

-和泉五社総社-
天照大日霊貴尊(あまてらすおおひるめのむちのみこと=大鳥神社)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと=和泉穴師神社)
天瓊々杵尊(あめのににぎのみこと=聖神社)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=積川神社)
鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと=日根神社)



 神戸から高野山に向かう途中、たまたま和泉府中に立ち寄ったのですが、そのとき偶然見つけたのが泉井上神社です。境内には拝殿が2つ。宮司さんに尋ねたところ、鳥居の正面にあるのが和泉五社総社で、左手にあるのが泉井上神社だと教えてくれました。




泉井上神社の拝殿。右脇には神社名の由来「和泉清水」があります。



 「井の八幡」「水内社」とも呼ばれる泉井上神社もまた、神功皇后ゆかりの神社だそうです。神功皇后新羅遠征を行うにあたってこの地を訪れたところ、一晩のうちに泉があらわれて清水がこんこんと湧き出したといいます。遠征から帰って来た神功皇后はふたたびこの地を訪れ、「これは瑞祥なる泉なり」ということで社を建て、この泉を霊泉として祀るようになったのが泉井上神社の始まりといわれています。

 ちなみに、「和泉」という名の由来は泉井上神社の霊泉からきているそうです。この霊泉は「和泉清水」と呼ばれ、水清らかで味も良く、豊臣秀吉公も茶の湯に用いるためわざわざ大阪城まで運ばせたといいます。




和泉五社総社。和泉国の各地の神社を勧請しています。



 元正天皇の治世の716(霊亀2)年、河内国から大鳥郡和泉郡日根郡の3郡が分けられて和泉監が設置され、この地に茅渟宮が置かれました。740(天平12)年には河内国に再編入されますが、757(天平宝字元)年に再び和泉国として分立されます。

 このとき和泉国府のそばに総社を建てて大鳥大社(堺市)泉穴師神社(泉大津市)聖神社(和泉市)積川神社(岸和田市)日根神社(泉佐野市)の5社を勧請し、和泉国の総氏神としてお祀りするようになったそうです。これが「和泉五社総社」で、「和泉国総社」「和泉大社」などと呼ばれ崇敬を集めています。




光と影のコントラスト。拝殿の格子戸から本殿を望む。



 現在の本殿は1605(慶長10)年に豊臣秀頼公が片桐且元公に命じて再建させたもので、国の重要文化財に指定されています。残念ながら中には入れませんでしたが、格子戸越しに見る境内には多くの摂社が建っていました。




東側に建つ鳥居。ここをまっすぐ行くと正面に泉井上神社の本殿が見えます。



 だんじりといえば岸和田のだんじり祭が全国的にも有名ですが、先日ご紹介した神戸市東灘区のだんじりをはじめ、各地でだんじり祭が行われています。

 ここ泉井上神社の周辺でも毎年10月第2土曜日・日曜日の2日間にだんじり祭が行われています。馬場之町南之町市辺町小社之町東泉寺町和気町小田町のだんじりが泉井上神社に宮入りするそうです。もともとは和泉神社市邊天神社に宮入りしていたそうですが、1605(慶長10)年に泉井上神社が再建された際、両神社がここに合祀されたため、和泉府中の地車はここに宮入りするようになったという説がありです。昭和後期に入って小田町和気町の地車も宮入りするようになりました。



アクセス
・JR阪和線「和泉府中駅」下車、東へ徒歩10分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

大阪・露天神社(お初天神)。

2006年05月17日 | ◆大阪府
恋愛成就・学業成就


露天神社

(つゆてんじんじゃ)
大阪市北区曽根崎2-5-4


菅公聖蹟二十五拝・第11番




「曽根崎お初天神商店街」から入る方が大半ですが、こちらの鳥居が正式な入口です。



〔御祭神〕 
少彦名大神
(すくなびこなのおおかみ)
大己貴大神
(おおなむじのおおかみ)
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
豊受姫大神
(とようけひめのおおかみ)
菅原道真公
(すがわらのみちざね)



 露天神社は、世間一般には「お初天神」といった方が通りがいいかもしれません。大阪の中心地・梅田に鎮座する神社で、「曾根崎お初天神通り商店街」をまっすぐ進んだ先にあります。"天神"という名の通り菅原道真公をお祀りする、創建1300年の歴史を誇る古社で「難波八十島祭」旧跡の一社です。曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集めています。「難波八十島祭」というのは、古代の難波において行われた最古の祭といわれています。この祭事は文徳天皇の御世の850(嘉祥3)年には既に行われていたという記録が残されており、6世紀頃には祭礼の形が整っていたとされることから、露天神社の起源もその頃ではないかと考えられています。





社殿への参道の左側にある展示舎(左)と、右側にある「露の井」。



 太古の昔、大阪湾のこの辺りに浮かぶ八十島のひとつの小島に「住吉須牟地曽根ノ神」が祀られていたといわれています。その御祭神の名前にちなんで、この地は「曽根洲」と呼ばれるようになりました。その後、大阪湾が少しずつ埋め立てられ、南北朝時代の頃には陸続きになって「曽根崎」が地名となりました。この頃、北渡辺国分寺の渡辺十郎源契渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移り住み、埋立地を利用して新田開発を行って農業を始めるようになり、この社を村の産土神としてお祀りするようになりました。露天神社の社殿は、長い歴史の中で大火や兵火に遭って何度も立て直されています。大坂夏の陣の際にも兵火に巻き込まれて焼失してしまいましたが、1622(元和8)年に地元の有力者・渡辺新兵衛源尋の手によって再建されます。このとき初めて菅原道真公が合祀されました。





太平洋戦争の空襲で全焼した社殿は、1957(昭和32)年に再建されて現在に到ります。



 901(昌泰4)年、大宰府に左遷されることになった菅原道真公。任地へ赴く失意の道行きの途中、福島の辺りで船を泊めてこの近くに伽藍を構える太融寺へ参詣したそうです。その道すがら、この辺りにさしかかった菅原道真公が、道端の草の露に都を思って偲び泣きして詠んだ詩が神社名の起こりとされています。また一説には、梅雨の季節になると境内にある「露の井」より清水がこんこんと涌きあふれたので「梅雨の天神」と呼ばれるようになったともいわれています。


「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを 思い出ずれば」




摂社の難波神明社(左)。社殿右奥の金比羅宮は中之島の高松藩邸からの遷座(右)。



 境内に合祀されている難波神明社は、821(弘仁12)年に嵯峨天皇の皇子である源融卿によって建てられたと伝えられています。後醍醐天皇の頃には勅願所とされて度々行幸を受けたりした名社で、江戸時代に入ってからは大坂城代と大阪北町・南町両奉行所の参拝社として隆盛を極め、境内も広大だったといわれています。残念なことに1834(天保5)年の大火事で全焼、1909(明治42)年にも火災によって社殿がすべて焼失してしまい、復興の夢叶わず翌1910(明治43)年にここに合祀されました。





社殿左手にある玉津稲荷(左)と、「曽根崎心中」で有名なお初と徳兵衛の像(右)。



 1703(元禄16)年4月7日早朝、堂島にあった「天満屋」の遊女・お初(21歳)と内本町の醤油問屋「平野屋」の手代・徳兵衛(25歳)が露天神社の「天神の森」で心中するという事件が起きました。当時大阪中の話題をさらったこの一大スキャンダルに非常に関心を持ったのが浄瑠璃作家の近松門左衛門です。このエピソードを題材に猛烈な勢いで書き上げた脚本は、事件からわずか1ヵ月後の5月7日には早くも道頓堀竹本座の舞台にかけられることとなりました。近松初の心中物「曽根崎心中」です。
 徳兵衛お初が心中を覚悟する「天満屋の段」、死に場所を求めて露天神社へ向かう道行きの「天神森の段」は文楽の名場面として人気を集め、観客動員に苦労していた竹本座の窮地を救う大ヒット作となりました。この心中事件の舞台となった露天神社は、「曽根崎心中」の大ヒットとともに「お初天神」と呼ばれるようになり、若い命を捨ててまで純愛を貫いた徳兵衛お初の供養や、自らの恋の成就を願う人々の参詣で賑わいを見せました。





「曽根崎お初天神商店街」の南にある入口(左)と西側の鳥居(右)。


アクセス
・JR「大阪駅」下車、南東へ徒歩10分
・阪急電車「梅田駅」下車、南東へ徒歩9分
・阪神電車「梅田駅」下車、南東へ徒歩5分
・阪神電車「東梅田駅」下車、南東へ徒歩2分
露天神社地図  【境内図】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
  
※「曾根崎お初天神通り商店街」のサイト内にあります。