神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・坐摩神社(摂津国一の宮)。

2011年09月21日 | ◆大阪府
住居守護・旅行安全・安産守護


坐摩神社

(いかすりじんじゃ)
大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号


摂津国一の宮
神仏霊場大阪 豊楽の道・第8番札所


通 称
ざまじんじゃ




オフィス街の中に鎮座する坐摩神社。


〔御祭神〕
坐摩大神
(いかすりのおおかみ)

生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神
以上5柱を総称して坐摩大神と呼ぶ




 豊臣秀吉公の大坂城築城に伴って続々と移住してきた家臣団の生活を支えるために各地から集められてきた商人たちによって商業地が形成され、江戸時代には「天下の台所」と呼ばれ、最大都市であった江戸をも凌ぐ日本一の商業都市として発展してきた船場地区。往時ほどの活況は失われつつありますが、今でも繊維問屋や証券会社、銀行などが数多く立ち並ぶオフィス街として賑わいを見せているこの町に鎮座しているのが、今回ご紹介する古社・坐摩神社です。
 「坐摩」と書いて「いかすり」と読みますが、これは土地や居住地を守るという意味の「居所知(いかしり)」が転じて付けられた名前だといわれています。坐摩神社は、住吉大社と並んで摂津国一の宮とされていますが、坐摩神社住吉大社の末社だったという記述や、住吉大社の遷宮の際には同様に坐摩神社も遷宮が行われていたと伝える文書が残されている事から、社格の上下は別にして、この2社が古来より密接な関わりを持っていたことが分かります。





鳥居をくぐって右手に建つ摂社群(左)。奥には多くの社殿が立ち並んでいます(右)。
※大江神社、繊維神社、大國主神社、天満神社、相殿神社の5社が祀られています。


 坐摩神社は、社伝によると神功皇后三韓征伐から帰還された時、新羅江とも窪津とも渡辺津とも呼ばれた淀川河口のこの地に坐摩神を祀る祠を建てて、我が子(のちの応神天皇)の安産を祈願したのが始まりといわれています。平安時代の後期には嵯峨源氏の流れを汲む源綱(「酒呑童子退治」や「一条戻り橋の鬼退治」で有名な渡辺綱公)渡辺津に移り住んで「渡辺」姓を名乗り、渡辺氏を興します。その子孫が「渡辺党」と呼ばれる武士団に成長し、海駆ける水軍として各地に進出して活躍した事で全国に「渡辺」や「渡部」など「ワタナベ」と呼ばれる名前が拡がり、「渡辺姓発祥の地」としても知られるようになりました。
 神功皇后ゆかりの古社・坐摩神社は、927(延長5)年に編纂された延喜式神名帳にも摂津国西成郡におけるただ一つの大社としてその名を連ね、939(天慶2)年には「祈雨11社」に選抜されるなど、雨乞いに御利益のある神社としても高い評価を受け、朝廷より祈雨御祈請を受ける事となりました。
 1583(天正11)年には天下人・豊臣秀吉公の大坂城築城に伴って移転を命じられ、長らく鎮座されていた渡辺津の社地から現在の鎮座地へと遷座されました(遷座されたのは寛永年間に入ってから)。この時、もとの社地にちなんで「渡辺町」という地名が付けられています。ちなみに「ワタナベ」の姓を持つ有志の方々によって「全国渡辺会」という団体が作られていますが、1989(平成元)年に行われた東区と南区の合併に伴って「久太郎町」への町名変更が決定し、由緒ある「渡辺町」という地名が消滅する事態となった事に「全国渡辺会」が反発して反対運動を展開、最終的に丁目の後に「渡辺」という番地名を付けるという異例の措置がとられ、地名に「渡辺」が無事残される事になりました。このように、代々守られてきた地名を大切に考える運動が多くの人々の理解を得て実を結んだという事は、伝統ある地名が簡単に変更されている現代において、その風潮に再考を促す意味で非常に意義深い事だったと思います。





戦前の外観を模して1959(昭和34)年に再建された鉄筋コンクリート造りの社殿。

木陰の中に立つ石碑(左)と、その隣で睨みを利かせる大きな狛犬(右)。



 神功皇后の故事にもあるように、安産の神としても有名な坐摩神社には、明治天皇が御降誕の際にも宮中より安産の御祈願があり、その後1868(明治元)年に全国を行幸された明治天皇坐摩神社において相撲を天覧されたという記録も残されています。その3年後の1871(明治4)年に府社に列せられた坐摩神社は、さらに1936(昭和11)年には官幣中社に昇格し、この際には官幣社の社格にふさわしい新社殿の造営が行われました。残念ながらこの社殿は1945(昭和20)年の大阪大空襲によって焼失し、1959(昭和34)年になって官幣社昇格時に建立された社殿の外観を模した鉄筋コンクリート造りの新社殿が再建され、現在に至っています。





社殿左手の参道(左)を抜けると、火防陶器神社と稲荷社が鎮座しています。



 社殿の左手にある参道を抜けると、2つの摂社が鎮座しています。そのうちの1社・火防陶器神社は、陶器問屋街の守護神として厚い崇敬を集めている神社です。もともとは、可燃性の高い藁を荷造りに多用していた陶器商人たちが「火避け」の守護神として愛宕山将軍地蔵尊をお祀りし、陶器製の人形を奉納して防火祈願を行っていましたが、1872(明治5)年に地蔵祭が禁止された事を受けて、これに代わる神として大陶祇神(おおすえつちのかみ)迦具突智神(かぐつちのかみ)という2柱の神を勧請して社殿を創建したのが始まりです。
 創建当初は瀬戸物町筋のある大阪市西区靭南通1丁目に鎮座していましたが、1907(明治40)年に大阪市電が敷設される事になり、その用地に掛かる事となった火防陶器神社坐摩神社内に遷座される事となりました。しかし、大阪大空襲に被災したため1951(昭和26)年に西横堀浜筋に遷されて再興されましたが、今度は阪神高速道路の建設のために立ち退きを余儀なくされ、1971(昭和46)年に再度坐摩神社の境内に遷座されて今日に至っています。庶民生活の象徴である「陶器の宮」が、公共事業の都合によって何度も翻弄される様は、まさに皮肉としか言いようがありませんが、市民の生活を第一に考えた場合、やむを得ない措置だったと思います。この火防陶器神社では、毎年7月23日には例祭が執り行われ、それと前後して「せともの祭」も開催されて賑わいを見せています。





西側の鳥居。鳥居の左脇には「陶器神社」の看板も掛けられています。


アクセス
・大阪市営地下鉄中央線「本町駅」下車、南へ徒歩1分。
坐摩神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・境内無料

拝観時間
・7時30分~17時30分 (平日)
・7時30分~17時 (土・日・祝日)

公式サイト




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