如意山 藤次寺
(にょいざん とうじじ)
大阪市天王寺区生玉町1-6
摂津国八十八箇所霊場・第19番札所
通 称
融通さん
(ゆうづうさん)
鮮やかな朱塗りが目を引く藤次寺の山門。谷町筋に面して立っています。
〔宗派〕
高野山真言宗
〔御本尊〕
如意宝珠融通尊像
(にょいほうじゅゆうづうそん)
谷町9丁目、通称「谷9」交差点のすぐ脇に、朱塗りの壁が非常に印象的な寺院が建っています。この寺院の名は藤次寺。御本尊である如意宝珠融通尊にちなんで「融通さん」と呼ばれ、開運厄除けのご利益のあるお寺として今も多くの人々の信仰を集めています。
朱塗りの山門をくぐると、白砂青松の清涼感にあふれた境内が広がります。
「融通さん」として親しまれている藤次寺は、正式名称を「如意山藤次寺」といいます。この寺院の歴史は古く、弘仁年間(810~824年)に藤原冬嗣卿の発願によって開かれたといわれています。藤原冬嗣卿は嵯峨天皇の側近として厚い信頼を受け、左大臣にまで登りつめるなど藤原北家隆盛の基礎を築いた人物で、藤原家の氏長者として一族の繁栄と結束に心を砕いたといわれています。この藤原冬嗣卿が藤原家の安泰を願って、甥である任瑞上人を開基として建立したのが藤次寺です。「藤原家を治める寺」という意味合いから、もともとは「藤治寺」と称していました。
金堂の左奥には不動明王や大黒天、稲荷社等が祀られています(左)。右は、阿波野青畝の歌碑。
藤原家の権勢の衰えとともに藤次寺の寺勢も衰退していきましたが、慶長年間(1596~1615年)に豊臣秀吉公子飼いの猛将・加藤清正公が大檀主となってバックアップを行い、金堂や伽藍、堂宇などの再建が進められて往時の輝きを取り戻します。江戸時代に入った1764(明和元)年には、時の左大臣・九条尚実卿より家運長久を祈るため「永代不易の祈願寺」として改めて旨辞が授けられ、九条家祈願寺として隆盛を誇りました。
明治時代に入り、神仏分離令によってすぐ南西に鎮座する生国魂神社の神宮寺・生玉宮寺(法案寺)が廃絶された際には、「藤治寺」はここを構成していた「生玉十坊」のうちの地蔵院を合併して「藤次寺」と改称しました。その後、藤次寺は廃仏毀釈の嵐にも耐えて法灯を守り続けていましたが、1945(昭和20)年の大阪大空襲では境内がほとんど焼失するなど壊滅的なダメージを受けてしまいます。しかしながら御本尊の如意宝珠融通尊は奇跡的に焼失を免れ、1960(昭和35)年になって京都大学の村田治郎教授と棚橋諒教授の手によって設計が行われ、当時の最新の建築技術によって金堂や寺務所、庫裡などの伽藍が再建されて今日に至ります。
山門・寺壁に負けず劣らず鮮やかな朱塗りの金堂。
アクセス
・大阪市営地下鉄谷町線「谷町九丁目駅」下車、南へ徒歩2分。
・大阪市営地下鉄千日前線「谷町九丁目駅」下車、南へ徒歩2分。
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拝観料
・境内無料
拝観時間
・6時~18時 (※毎月1日・11日・21日の縁日の時は5時~21時)
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