「言葉が必要な理由」を書いたあと、これを受けてマキさんが「それぞれの理由PART2」を書いてくださった。
お返事がてら、またつらつらと考えている。
そもそも言葉の誕生は、経緯をたどれば、生存のためだったろう。
だから私たちが言葉を語るとき、その理由はすべて、究極的には生存と結びついていた。
でも。言葉を失うときがある。
逆説的に見えることだけれど、それも生きるためのひとつの方法なのだと思う。
だけどそれは過程だ。浄化という過程。
私たちは言葉をとりもどす。
言葉だけでなく、表情など感情を顕にすること自体も、生存と関わっている。
胎児はおなかの中にいる時から笑う練習をしているという。
それは以前にも書いたことだけれど、生きるためなのだ。
赤ちゃんは愛されなくては生きてゆけないから可愛く生まれてくる。
「言葉が必要な理由」で、嬉しいときには言葉は必要ないと書いた。
確かに必要ない。
でも、私たちは嬉しい時にだってたくさん言葉を発する。
同記事のコメント欄に祐さんが、まずいときは「まずい」と云うのに美味しいときは何も云わない。と書いてくれた。
私はそれに「嬉しいから言葉にすることもある」と書いた。
そう。私たちは嬉しいからこそ言葉にすることもある。
嬉しいからこそ、その思いを言葉にすることもある。
冒頭で「私たちが言葉を語るとき、その理由はすべて、究極的には生存と結びついていた」と過去形で書いたのは、一度誕生した言葉は独り歩きを始めるからだ。
人は言葉を獲得して、それをただ生存するためだけでなく、使うようになる。
きっとそれが、「嬉しいから言葉にすることもある」ということだと思う。
たぶん、それが、「生存」というなんだか感情を排除したがる硬い言葉と、「生きる」といういろんな響きのこもった言葉の間にある違いだと思う。
私たちはおんなじようなことを言葉を変えて何度も云っているのかもしれないですね。マキさんにTBです。
お返事がてら、またつらつらと考えている。
そもそも言葉の誕生は、経緯をたどれば、生存のためだったろう。
だから私たちが言葉を語るとき、その理由はすべて、究極的には生存と結びついていた。
でも。言葉を失うときがある。
逆説的に見えることだけれど、それも生きるためのひとつの方法なのだと思う。
だけどそれは過程だ。浄化という過程。
私たちは言葉をとりもどす。
言葉だけでなく、表情など感情を顕にすること自体も、生存と関わっている。
胎児はおなかの中にいる時から笑う練習をしているという。
それは以前にも書いたことだけれど、生きるためなのだ。
赤ちゃんは愛されなくては生きてゆけないから可愛く生まれてくる。
「言葉が必要な理由」で、嬉しいときには言葉は必要ないと書いた。
確かに必要ない。
でも、私たちは嬉しい時にだってたくさん言葉を発する。
同記事のコメント欄に祐さんが、まずいときは「まずい」と云うのに美味しいときは何も云わない。と書いてくれた。
私はそれに「嬉しいから言葉にすることもある」と書いた。
そう。私たちは嬉しいからこそ言葉にすることもある。
嬉しいからこそ、その思いを言葉にすることもある。
冒頭で「私たちが言葉を語るとき、その理由はすべて、究極的には生存と結びついていた」と過去形で書いたのは、一度誕生した言葉は独り歩きを始めるからだ。
人は言葉を獲得して、それをただ生存するためだけでなく、使うようになる。
きっとそれが、「嬉しいから言葉にすることもある」ということだと思う。
たぶん、それが、「生存」というなんだか感情を排除したがる硬い言葉と、「生きる」といういろんな響きのこもった言葉の間にある違いだと思う。
私たちはおんなじようなことを言葉を変えて何度も云っているのかもしれないですね。マキさんにTBです。
TBありがとう。とりあえず、ワタクシの記事もTBさせていただきました。また色々考えますね。
あと、ワタシ、やっぱり「美味しい」と思った時は「言葉」なり「表情」なりで表すといいなと思います。
だって、作り手はそれを見聞きして、嬉しくなるから。「不味い」と言われると、ちょっとグサッと来ますね。あまりにもダイレクトで・・・例えば「もう少し味が濃いほうがもっと美味しくなるんじゃない?」なぞと遠まわしに言って欲しいです・・・
(遠まわしに言うということって、日本人の美徳であり、また欠点でもあるのですけれどね)
「あなた」に「それ」を伝えたいときは「あなた」「私」「それ」についての相互作用が生じてしまう。 身振り手振りから、効率の良い「それ」を示す言葉が作られてきたのだと思う。
「あなた」と「私」の相互間で「それ」を伝えル必要が生じたときに言葉が必要になるのだと思います。
それは、生きるための手段だとおもう。
家族の中で 言葉が少なくなるのは「それ」について 共通認識があるから。文化が似ていると 言葉もすくなくても 理解してもらえる。
言葉が違う外国人と「それ」について伝えようとすると、身振り手振りも多いけど 言葉も多くなります。
言葉にしたい理由は 「それ」について 伝えたいからだと思います。
伝えたくなかったら 「私」だけの存在でいいと思います。
長く付き添った夫婦が「あれ」や「それ」だけで 会話が成立するしてくれば、言葉も自然と戻ってくるのかもしれません。。
すみません、わかりにくい文章で・・・≦(._.)≧ ペコ
そうね。やっぱり「美味しい」って云ってもらうととっても嬉しいの。
でね、まずいときの表現方法ですが、私は「これはあまり好きじゃないな」って云ってもらうのが嬉しいかな。・・・なんて書きつつ、葩餅の記事ように「まずい!」って叫んだりもするのですけどね♪
Recent Trackbackの欄にはTB先が出ないのでダブっているように見えるけど、違う記事へのTBなので別にかまわないですよ。
たくさん書いてくださってありがとう。
じゅうぶん、ひとつの記事になりそうですね♪
そうですね。私もそう思うですよ。
ただ、大人になってからの私は「以心伝心」を基本的には信じなくなりました。
家族でもやっぱり言葉が必要だと思うようになりましたよ。
といっても、ものすごくおしゃべりになれたわけでもないのですけどね♪
おはようございます。
確かに、阿吽の呼吸などは存在するのかもしれませんが、実はそこには、かなりの誤解や解釈のズレが介入している可能性もありますね。
ですから、やはり家族間でも言葉は必要だとは思うのです。
が、あまり堅苦しく言葉にばかり気を使うのも面倒だし、呼吸や間で相手の気持ちを読む、または勝手に自分で解釈して納得してしまうのが人間かもしれません。
それでも、許されるのが家族、ないし気の知れた友人なのかもしれません。
だけど、誤解されたくない場合はやっぱり言葉での説明が一番手っ取り早いですね。
それでも受け手の取り方によってどう解釈されるかは分かりませんが....。
話せば分かってくれるはずという思い込みを外して、
自分の受け皿を大きくしたいとは思っています。
なんだか横道にそれたとりとめのないコメントになってしまってスミマセン。
以心伝心 私も 信じなくなっています。(笑)
分っていると思っていても、全然分っていないことがあります。
阿吽の呼吸は、同じ方向に、同じ速度で 心も身体も向いている時に成り立つんでしょうね。
ということは、家族はみんなばらばらなのね。(笑)
「きもい」とか言われても、「気持ちいいのか?、悪いのか?」よくわからない。
人と会話していても、語尾がはっきりしなくて、勘違いすることがある。
遠まわしな表現で会話されると特にわからなくなります。 日本語って 難しいと 最近思います。
>祐さん
日本語の乱れは兼好法師でさえ、嘆いていたのですから、いつの時代も変わりませんね。
本当に、日本語は難しいです。
色々な解釈の仕方、発音によって異なる異口同音、
それらが、また新たなイントネーションで使われたりするので、時々混乱しますよね。
ワタシはどうしても、相手が何を言っているか分かりたいときは「簡潔に言ってくれる?」とか「結論だけ教えて!」などと言ってしまいます。
回りくどくて解らない事を言われたときですけれど。
好きか嫌いかという結論が、微妙といわれたら・・・・・ 眼が点(笑)