奈良の昔はなし~廣瀬神社と水足池(みずたるいけ)~
廣瀬神社が鎮座する北葛城郡河合町川合は、その名の通り、葛城川・佐保川・曽我川などいくつもの川が大和川と合流するところです。また、明治の中頃まで物資の集散地として賑わったところでもあります。
ただ、一帯は沼地だったのです。そんな地にあって、廣瀬神社は、水田を守り、河川の氾濫を防ぐ水神を祀る神社として古くから信仰されてきました。そんな廣瀬神社にまつわるお話しです。
昔、河合に藤時(ふじとき)という里長(さとおさ)がいました。ある日の夕方、家の外に神様が人の姿で現れたのです。顔の美しい若者で、花模様の着物を着、芳(かぐわ)しい香りを漂わせていました。そして里長にこう言ったのです。「お前の家の北に池があろう。あれは水足池で、底は深く、龍王がすんでいる。そこで、その池の上にご殿を造ることにしよう。承知するか」と。
藤時は困ってしまった。「池の上はいつも波が高いので、わたしら人間は、とても泳いでご殿は建てられません」すると、若者は言いました。「おまえたちは水に溺れることを恐れているようだ。もし、池の水をなくして平地にすると、ご殿を造ることを承知するか。そのしるしは、翌朝みられたい」と言って姿を消したのです。
翌朝、驚いたことに、水足池は、水のない平らな地に変わっていたのです。そこで、藤時は、大工を呼んでご殿を建てたのです。これを水足明神(みずたるみょうじん)といいます。
このことを、急いで朝廷に伝えると、天皇の使いである勅使(ちょくし)の人たちがきて、厳(おごそ)かにお祭りをされたと言います。
~昔はなしゆかりの地「廣瀬神社」~
廣瀬神社の創建にまつわる言い伝えも、ほぼ同じです。崇神天皇のとき、水足池が一夜にして陸地となり、橘の木が多く生えた。これが天皇に伝わり、社殿を建ててお祭りをした、と伝えられています。
今、朱色の大鳥居をくぐると、長い参道が続きます。大樹が深々と天をおおい、冬の柔らかな木漏れ日と鳥の声が、ゆっくりと古代の神域にいざなってくれます。
白砂(はくさ)の斎庭(ゆにわ)に、黄色い実をいっぱい付けた橘の木が数本あり、その向こうに荘厳な拝殿と本殿が鎮座しています。
西へ曲がると、昔話に登場する「水足明神」を祀る小さな社(やしろ)と、横に沼のような小池が残っています。
向こうには、今もいくつもの川を集めて流れる大和川の高くどっしりとした土堤(どて)が見えます。静寂の境内は、古代の雰囲気をそのまま残してるようなそんな感じです。
~廣瀬神社の奇祭「砂かけ祭」~
「日本書紀」には「廣瀬乃河曲」、延喜式祝詞には「廣瀬の川合」と記載され、天武天皇4年より龍田大社と共に風雨を治め、五穀豊穣・国家安泰を祈る国家祭祀が同日に執り行われ、朝廷をはじめ万民に厚く信仰されてきました。
廣瀬神社のご祭神は水神であり、砂を雨に見立てて掛け合うことから「砂かけ祭」と呼ばれるようになりました。
古くは、大忌祭の中で行われていた行事で、現在も引き継がれた神事の一つです。現在は、2月11日が祭日となっており、祭典は午前10時30分から「殿上の儀」午後2時から「庭上の儀」の二部に分かれ、五穀豊穣と雨水の多量を願うと共に厄除けを願う祭りでもあります。
神事は、木製の牛面をかぶった牛役、田人(お百姓)と早乙女が奉仕します。
廣瀬神社へは、近鉄田原本線池部駅から徒歩約25分、JR大和路線法隆寺駅から徒歩約30分です。法隆寺駅にはレンタサイクルもあります。
自動車の場合は、西名阪自動車道法隆寺ICより約5分です。(参拝者用駐車場あり)
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