日本に現存する日本最古の和歌集「万葉集」を身近に!
巻1・78番歌 詠み人:元明天皇
飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ
(訳:飛ぶ鳥の明日香の里を後にして去ってしまったら、あなたのいる辺りは見えなくなってしまうだろうか。)
解 説
万葉集の子の歌の題詞によると、和銅3年(701年)2月、藤原宮から寧楽(なら)宮(平城宮)へ還った時、御輿を長屋の原に停め、古郷(ふるさと)の方を振り返り遠望しながら作ったのがこの歌で、作者については「太上天皇の御製(だいじょうてんのうのぎょせい)」と記す書物がある、とあります。
和銅3年は平城遷都の年で、当時の天皇は元明天皇なのです。
「続日本紀」によれば、元明天皇は同年正月に大極殿で年頭の儀式に臨み、3月に平城宮へ遷都したのです。
最近の発掘調査により、同年には平城宮の大極殿が未完成であったことが分かっていますので、元明天皇は藤原宮の大極殿で正月の儀式を行い、題詞にあるように2月に藤原から平城へ行幸し、3月に平城宮で遷都を宣言したということになります。
なお、題詞には太上天皇の御製とありますが、和銅3年当時には太上天皇は存在しませんので、元明天皇が和銅8年(715年)に退位して太上天皇となった後に題詞が付けられたことが分かります。
藤原から平城へ向かう元明天皇の御輿が停まった「長屋の原」は、当時の行政地名で言うと大倭国山邉郡長屋里(やまとのくにやまのべぐんながやのさと)、現在の天理市西井戸堂町・東井戸堂町付近にあたります。
同地には古代の幹線道路である中ツ道が南北に走っており、元明天皇の行幸は中ツ道を利用したと思われます。
ここは藤原と平城のちょうど中間に当たり、中ツ道の休憩地点であったと考えられます。
この付近から南の方角を望むと、飛鳥・藤原の一帯は遠くに見える山並みの麓辺りとしか分からず、はっきりとは見えません。
この地で御輿を停めた元明天皇は、夫の草壁皇子、子の文武天皇が共に眠る飛鳥の里がまもなく見えなくなってしまうであろう当地でこの歌を詠み、古京の飛鳥・藤原に別れを告げ、新京の平城で始まる新たな時代へと気持ちを切り替えようとしたのではないかと思います。