日本に現存する日本最古の和歌集「万葉集」を身近に!
巻4・489番歌 詠み人:鏡王女(かがみのおおきみ)
風をだに 恋(こ)ふるは羨(とも)し 風をだに 来(こ)むとし待たば 何か嘆かむ
(訳:あなたが風だけにせよ恋うているのは羨ましいこと。せめて風だけでも来るかと思って待てるのなら、何を嘆くことがありましょう。)
解 説
この歌は、額田王が天智天皇を思って作った歌(巻4・488番歌)に鏡王女が唱和した相聞歌(互いに贈答する歌、恋の歌)です。
鏡王女は額田王と同じく天智天皇の後宮に仕え、後に藤原鎌足の正妻となった人物で、「万葉集」巻2の「相聞」の部には彼女が天智天皇(92番歌)、藤原鎌足(93番歌)ととり交わした歌が収められています。
額田王の歌とこの歌は共に秋の風を詠んだ名歌として知られたようで、巻8の「秋の相聞」の部にもこの両歌が重出します(1606・1607番歌)。
鏡王女の出自については、この歌などを根拠に額田王の姉妹とみる説が古くからありますが、確実とは言えません。
鏡王女は他の史料では「鏡姫王」「鏡王女」とも記され、天皇の血を引く女性です。
天皇や皇族の陵墓を列挙する「延喜式(えんぎしき)」(諸稜寮式(しょりょうりょうしき))には、舒明天皇の山陵である押坂陵の域内に鏡王女の押坂墓が所在すると書かれており、鏡王女は舒明天皇の近縁者と考えられます。
最近、奈良大学の吉川敏子教授は「鏡王女考」という論文を発表され(「続日本紀研究」418号、2019年)、鏡王女は天智・天武両天皇の異母兄にあたる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の子であるとする説を唱えられました。
古人大兄皇子は舒明天皇と蘇我氏の女性との間の子で、中大兄皇子(後の天智天皇)とは皇位継承をめぐって競合関係にあり、645年に謀反の疑いにより中大兄皇子によって誅殺されました。
中大兄皇子は同じく古人大兄の子である倭姫王もキサキとしており、古人大兄の女子が中大兄皇子への恨みを抱いたまま他の王族と結婚するのを避けるため、中大兄皇子とこの姉妹の婚姻が成立したと吉川教授は述べています。
683年に鏡王女が病に臥した際に、天武天皇は彼女の家まで自ら見舞いのために出向いており、舒明天皇の孫として最期まで丁重に遇されていたことがわかります。