作者 吹黄刀自(ふきのとじ) 巻一 二二番歌
河の上(へ)の ゆつ岩群(いわむら)に 草生(くさむ)さず 常にもがもな 常(とこ)処女(をとめ)にて
訳:川のほとりの聖石には苔もはえていない。あのようにいつも変わらずにありますように。永遠の少女(おとめ)として。
解説
今回は、「ゆつ岩群」に触発され、永遠の少女であるようにと願った歌をご紹介します。「岩群」につく「ゆつ」は祭祀具「斎(ゆ)串」などの「ゆ」と同じで、神聖なものを表すとされています。作者は、川辺で長い年月を過ごしているにも関わらず、苔むしていない石に聖性を感じたのでしょうか。この不変の聖石のように、永遠に少女であることを願い、歌っています。
この歌は、歌が詠まれた状況を説明した題詞によると、十市(とおち)皇女が伊勢神宮に参った際に、「波多の横山(現在の三重県津市一志町付近か)」の巌を見て吹黄刀自が作った歌とあります。また、歌の後に付された注では、天武四年(675年)二月に、十市皇女と阿閉(あへ)皇子が伊勢神宮に参ったという「日本書紀」の記事が紹介されています。
これらのことから、この歌は天武四年に皇女たちが伊勢神宮に参向した際に、供の女官である吹黄刀自が詠んだ歌だと推測できます。
十市皇女は天武天皇と額田王の娘で、壬申の乱で敗北した大友皇子の妻だった皇女です。阿閉皇女は天智天皇の娘で、草壁皇子の妻となり、後に軽王(文武天皇)を生み、自身も元明天皇として即位した人物です。この時はまだ十四歳でした。吹黄刀自がこの歌を薄幸な十市皇女や年若い阿閉皇女のために詠んだのか、自身のために詠んだのかは分かりません。ですが、皇女たちの旅路に歌が彩りを添えていたようすが伝わってきます。
吹黄刀自は、他にも巻四・四九〇番歌、四九一番歌を詠んでいますが、「日本書紀」には記録がありません。「万葉集」は、正史に記されることのない、人々のこうした細やかな活動や願いを具体的に伝えてくれています。
万葉集ゆかりの地~初瀬街道~
京・大和方面と伊勢を結ぶ初瀬街道は、現在の松阪市六軒から青山峠を越え、名張を経て奈良県の初瀬(長谷)へと至ることからその名が付きました。古くは「青山越」「阿保越」、参宮表街道、参宮北街道とも呼ばれ、壬申の乱の際に大海人皇子が名張に至った道であり、また斎王が伊勢へと赴いた道でもありました。初瀬街道が伊勢街道から分岐する六軒や青山峠の麓の垣内宿では、多くの参宮客が往来した当時の様子がうかがえる伊勢音頭が歌われたといわれています。
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