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万葉集をわかりやすく解説

2019-09-15 07:44:58 | 地域と文化

 

作者 大海人皇子(おおあまのみこ)  巻一  二一番歌

 紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎(にく)くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

訳:紫草のように美しいあなたが憎かったら、あなたは人妻だのに、どうして恋いしたうことがあろう。

 

解説

 今回の歌は、大海人皇子(後の天武天皇)が額田王に贈った一首です。この歌の前に、額田王は「あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る(訳:あかね色をおびる、あの紫の草の野を行き、その御料地の野を行きながら、・・・野の番人は見ていないでしょうか。あなたは袖をお振りになることよ。)」と詠んでいます。袖を振ることは、古代では相手の魂を呼び寄せる呪術的な行為とされ、相手の心をひきつけようとする、求愛の行為とみなされました。その大胆な行動に驚く額田王に対して、大海人皇子は、たとえあなたが「人妻」であっても恋しく思うのだという、熱烈な愛の歌を返します。

 この歌が詠まれたのは、天智天皇の蒲生野(がもうの)(現在の滋賀県、琵琶湖の東南部)での遊猟の時です。今回の歌の左注には、「日本書紀」の天智天皇七年(668年)五月五日の蒲生野での遊猟の記事が引用されています。五月五日に野に出て鹿を狩るこの行事は「薬猟」とも呼ばれ、早くは推古天皇の時代に記録がみえます。猟は、王と臣下との主従関係を確認する、儀礼的な行事でもありました。

 また、「薬猟」では狩猟だけでなく薬草などを採ることもあったようです。今回の歌で詠まれている「紫野」は、当時貴重な植物とされ、額田王の歌に「標野(他人が入ることを禁じた野。ここでは天皇の御料地)」とあることから、「標野」における「紫草」の採集も行われたのでしょう。

 この歌の「人妻」という言葉から、額田王を天智天皇の妻とする見方もありますが、額田王が天智天皇の妻であったという歴史的な記録はありません。そもそも、この歌は相聞(そうもん)歌ではなく雑歌(ぞうか)(儀礼の時の歌)に分類されています。額田王をめぐる三角関係を想起させる歌ですが、現在では、遊猟の後の宴席における戯れの歌であるという理解が支持されていますが、このように考えるのも何だか意味深でいいと思いませんか。

 

万葉集ゆかりの地~本薬師寺跡(もとやくしじあと)~

 現在奈良市の西の京にある薬師寺の前身にあたる寺が本薬師寺です。この歌の解説に登場する天武天皇が後の持統天皇である皇后の病気平癒のため祈願して、天武9年(680年)に薬師如来を本尊とする寺の建立に着手しました。しかし寺の完成を待たずして天武天皇が崩御し、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。

 当時は、金堂や東西に二つの塔がありました。平城遷都に伴って寺は伽藍ともども西の京へ移築されたと言われていましたが、別々に造られたという説が有力になっています。それ以来、この寺は本薬師寺と呼ばれるようになりました。

 

         

 

 いま寺には、小堂が建っているばかりですが、前庭にあたる跡地には金堂の礎石や東西塔の上壇、塔の心礎などが残されています。現在、その背景には畝傍山が望めますがその光景はいかにも天皇が発がんした官寺跡にふさわしいものです。

 

        

 現在、本薬師寺跡周辺の水田には、ホテイアオイが植えられ、最盛期には40万株を超える淡く美しい紫色の花が一面に広がります。さらに、秋には水田の畦道に彼岸花が咲き誇り朱色の絨毯を敷いたように見え、背景の畝傍山とのコントラストが素晴らしいですよ。

 

          

        

 

 

       

 

 

 

 

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