奈良の魅力を発信

奈良のグルメ情報や史跡・名勝・万葉集・古事記・日本書紀・昔話のゆかりの土地を紹介します
ので、よろしくです!!

健康保険とは

2019-09-25 19:49:44 | 健康生活

私たちは健康保険で守られている!

 就職すると、勤め先の健康保険組合か協会けんぽ、公務員などは共済組合、自営業やフリーランスの方は国民健康保険というように、何らかの公的医療保険制度(健康保険)に加入します。そこで、この健康保険についてもう一度調べていきましょう。

「高額療養費制度」で安心

 医療機関に支払う自己負担額(一部負担金)は医療費の3割が実費となります。風邪などの通院ならまだしも、もし入院や手術で高額の医療費がかかったら大変と、多くの人が心配します。しかし、どの健康保険にも備わっている「高額療養費制度」により、1ヵ月(月初から月末)の自己負担額の上限が決められています。年収による区分は次の通りです。

総額で100万円の医療費がかかった場合

年収350万円の会社員=5万7600円・年収600万円の場合=8万7430円が1ヵ月の自己負担額の上限となります。3割の30万円が自己負担分と思われがちですが、実際にはここまで下がります。

限度額適用認定証

 もし入院することになったら、加入している健康保険に「限度額適用認定証」を申請し、病院に提示しましょう。支払いの際、自己負担上限額で済みます。

高額療養費の「多数該当」

 長期の入院など連続して高額の医療費がかかった際、4か月目以降からはさらに上限が低くなります。

高額療養費の「世帯合算」

 同じ月に2カ所以上の医療機関、あるいは同じ世帯の人(同じ健康保険証を使っている家族)でそれぞれの自己負担額が2慢1000円以上かかり、合算した金額が自己負担限度額を超えた場合は払い戻しが受けられるのです。

収入保障の「傷病手当金」

 健康保険組合、協会けんぽ、共済組合には「傷病手当金」という収入保障の制度があります。業務外の理由による病気やケガで仕事に就くことができなくなり、勤務先から給与が支払われない、または支払われても少ない場合の収入保障です。連続して3日間休んだ後、4日目以降の仕事に就けなかった日に対して最長1年6か月、目安として収入の3分の2(傷病手当金が支給開始される前1年間の給与をもとに計算した金額)が支給されます。

 

 


万葉集をわかりやすく解説

2019-09-25 07:32:51 | 地域と文化

作者 倭大后(やまとのおおきさき)  巻二  一四九番歌

 人はよし 思ひ止むとも 玉鬘(たまかづら) 影に見えつつ 忘らえぬかも

訳:他人は故人をしのぶこともやがてなくなるかもしれない。たとえそうであっても、私には美しい鬘のように面影に見え続けて、忘れられないことだ。

 

解説

 この歌は天智十年(671年)に天智天皇が崩御した際、皇后であった倭姫王(やまとひめのおおきみ)が詠んだ挽歌です。同じ頃に詠まれた後宮のほかの女性たちによるとみられる歌も含め、「万葉集」には天智挽歌群が掲載されています。

 「日本書紀」巻第二十七によれば、天智十年の九月に天智天皇が病気になり、十月十七日に重症化、十二月三日に近江宮で崩じた、とあります。直後の十二月十一日には、新宮で殯(もがり)をしたこと、古代において社会的事件の前兆と考えられていた童謡(わざうた)が三首みられたことも記されています。この年には、「漢書」で王室交代の前兆とされた鼎(かなえ)が鳴るなどの現象もあったということで、いずれも、翌年に起こる「壬申の乱」を予感させる内容でえあると言えます。

 続く「日本書紀」巻第二十八でも、巻二十七の最後部を繰り返すように天智天皇が病に倒れた後の動向を記し、大海人皇子(後の天武天皇)は皇位に就く意思がなく出家したなど、壬申の乱に至る経緯や乱の具体的な様子が事細やかに記されています。

 この歌を詠んだ倭姫王の父・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は、舒明天皇の第一皇子でしたが、母親が蘇我馬子の娘・法堤郎女(ほほてのいらつめ)であったことから、645年の乙巳の変(大化の改新)で蘇我氏の本宗家が滅びると同時に、有力な後ろ盾を失ったとみられます。皇位に就くこともなく、出家して隠棲しようとしたものの、中大兄皇子(後の天智天皇)に謀反の罪で誅されたといいます。倭姫王の母親は不明であり、倭姫王と天智天皇との間に子どもが生まれたという記録もありません。

 父親のかたきにあたる男性の妻として生き、他人が忘れても自分だけは夫の面影を慕うと歌を詠む、古代の女性の複雑な人間関係と心情とを思ってしまいます。

 

万葉集を彩る人物~中大兄皇子(天智天皇)~

 中大兄皇子は、大化の改新(乙巳の変)を主導し、蘇我入鹿を殺害して「大化の改新」と言われるようになる政治を行った人物なのです。

 中大兄皇子は、聖徳太子の死後、太子が築いた天皇中心の政治が衰退しはじめ、その代わり豪族であった蘇我馬子(そがのうまこ)の息子である蘇我蝦夷(そがのえみし)と孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が大臣という高い地位につき権力を握りました。その経緯ですが、元々、蘇我馬子は聖徳太子の政治を助けていたためです。

蘇我入鹿は、舒明天皇をないがしろにして、自分が天皇であるかのような立ち振る舞いを見かねた舒明天皇の皇子であった中大兄皇子が立ち上がり、中臣鎌足(後の藤原鎌足)と慎重に計画を練って、645年6月12日、皇居での儀式で入鹿を殺害し、そのことを知った蘇我蝦夷は自殺を図り、蘇我氏は滅びました。

 そして当時、唐(中国)と交流が深くその影響もあり、唐の政治制度を取り入れ、天皇中心の色々な改革を行いました。このとき初めて元号が用いられ日本最初の元号が「大化」とされ、中大兄皇子の政治改革を大化の改新と呼ばれるようになりました。この大化の改新ですが、正式な名称は「乙巳(いつし)の変」と言います。

 しかし、このころ朝鮮半島では、唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍に、日本と交流があった百済(くだら)が滅ぼされ、中大兄皇子は、唐・新羅を倒すため、大軍を送りこみましたが、大敗し、その後中大兄皇子は、唐や新羅の力は巨大であると感じ九州などの守りを固めるようになったのが防人の始まりです。

 大化の改新をともに行った中臣鎌足ですが、その後病気になり、病気で倒れた中臣鎌足を、天智天皇がお見舞いに行った時、中臣鎌足に、最高の位である「大織冠(だいしょくかん)」と「藤原」の姓を与えられたのですが、この翌日、中臣鎌足は病気で死去してしまいました。

 平城京から平安京へ都が遷されその後、政治を司った藤原氏は中臣鎌足の子孫なのです。

 

 

ファンケル(FANCL) 新マイルドクレンジング オイル 1本 120mL
FANCL
FANCL