稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.75(昭和62年7月23日)

2019年10月16日 | 長井長正範士の遺文


○数学は國語なり。國語は剣道なり。ということ。
これを言ったのは私の家内です。
嘗て(かつて)朝げいこの一部の方にコピーして見て貰いましたところ、
あるご熱心な高校の剣道の先生から、その内容の一部について、ご質問があり、
直接家内から解答を申し上げ、よろこんで頂きました。

その後、金沢の押田七段(金沢高教諭)も同様ご質問を頂き、
ご熱心な先生のご指摘に家内もこと詳しくお返事を致しました。
その後になっても、うわさが広がり、広く皆さんに伝えるため、
この№のコピーの中に再記録してはどうかとのお声があがりましたので、
大変恐縮ですが、家内の言ったことを、ありのまま次に書きとどめておきます。
(剣道を志す者、この文を読み、何かをつかんで頂きたい)

『長正館の剣道生に数字を』
“数字は國語なり。國語は剣道なり。”という言葉を冒頭に述べたが、
この言葉は未だ誰にも言ったことはないし、又聞いたこともない突飛な言葉である。
われ乍らよくもこう思い切った文句を考えついたものだと驚き入っている。

この言葉を「全くわからんことを言うとる」と思う人。「大分変人だな」と感じる人。
「何か少しぐらいわかるような気がする」と考える人。
又「実にそうだ、何事でもそう言えるんじゃないかな。
いや全くわが意をすっぽぬかれた言葉だ。実に参った。」と感嘆する人。
いろいろあると思う。私はこの人達すべて正しいと思う。
何も思いもせず、感じてくれない人。この種の人が一番寂しい存在である。

誰でも小学校で算術なり算数なりを習う。そして中学校では数学を学ぶ。
そして大なり小なり苦労をし、又解けた時のよろこびを体験する。

自分の体験をふり返ってみる時、数字に対して、とにかく先ず文字、数字を読まねばならない。
眺めているだけでは一歩も進まない。その文字、数字の表わしている意味を解さねばならぬ。

例えば2+3=5なる式は、りんごを2個持っていたところへ、
又3個もらったら5個になったという風に単なる式から意味がわかったり、
又、文が作れたりしたらもうしめたものである。

a(b+c)なる数式の意味、これは縦aメートル、横(b+c)メートルの
長方形の面積を示していると感じてもよいし、
一人当りb円のノートとc円の鉛筆をa人の子供に買ってやった代金と考えてもよい。

どちらにしてもa(b+c)=ab+acを簡単に理解できる。
式から文を作ったり、又、文から式を作ったりすること、ここから理解への道が拓けてくる。
そのためには問題をよく読む。わからなかったら、わかるまで読む。
きっと問題の中に解答の鍵がある。眞剣に問題を読んで考えることから始まる。
解決の原動力は一にも二にも精神を集中して命がけで読むこと、
読んで問題の眞意をつきとめることにある。

最近の例として、本年、大阪公立高校入試の問題四、配点(9/75)について考えてみよう。
1・2の数を1つずつ書いた2枚1組のカードをA・Bが同時に1枚ずつを出し合い、
数字が同じ時はAの勝、異なる時はBの勝とし、
出したカードに書いてある数の和を勝者の得点とする。
これを10回くり返して1ゲームとする。続く

◎長正の感想
「文武両道」というが私は「文武一如」と言いたい。如何でしょうか。
現代の剣道を志す者は視野を世界に広めなくてはならない。
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午前はダイキン、夜は、なんば養正会で稽古(2019年10月14日)

2019年10月15日 | 剣道・剣術
摂津市剣道協会主催ダイキン工業有心館合同稽古会。
毎月、基本的に第二日曜日の10時~12時まで。
本日は体育の日に開催だった。
人数45名ほど。うち、八段3名、七段20名近く。

早めに着いたので、岸本先生(八段)の、
子供たちへの指導を少しだけ拝見させていただいた。
いくつか「なるほど!」と思うところありメモさせていただいた。
そのまま自分の道場にフィードバック出来れば良いのだが。。


(素振りのシーン-1)


(素振りのシーン-2)


(出稽古には、どこへでも「長正館」で参加している)

長正館からはK藤六段が参加。養正会からはK野六段が参加。
木曜会からはA野七段が初参加だった。


(K藤五段と攝津のW辺七段)


(M村七段とK藤五段)


(八段先生の寸評のあと)

---岸本先生---
間合いに入るまでが大事。間合いに入ってから「どうしよう」と迷わないこと。
打って「小手ぇ~!」は良いが「小手あり一本~!」とは言わないこと。

---田頭先生---
理合も無く、間合いに入ったから打つのではなく、
相手の起こり頭を打って「心を打つ剣道」を目指すこと。

---林先生---
着装、礼法、構え、初太刀を大切に。
これは段位に関係なく誰でも意識して稽古が出来る。

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摂津から東大阪に戻って仕事して、奈良の自宅に戻って車を置き、
バスと電車を使って難波まで出てきた。

19時~20時15分まで。なんば養正会。
大阪、難波の大阪府立体育会館(エディオンアリーナ大阪)。
人数25名ほど。地下は蒸し蒸ししていた。
回り稽古から参加。
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なんば養正会のホームページ。(管理人は私です)
http://doujyou.net/youseikai/
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(18時40分頃に行ったが剣道形の稽古をしていた)


(ここでは置き防具を使用)


(準備運動→素振り→基本稽古→回り稽古→自由稽古)


(稽古終了)


(同じく)


【感想・反省点】

摂津では数こそ多くは無いが、八段、七段を中心に稽古をし、
久々に二刀(摂津のK村さん)と稽古したのでクタクタに疲れてしまった。

仕事を終えて自宅に戻ってシャワーを浴びてビールを飲みたかったが、
K藤六段が養正会に行くと聞き、それならと勢いで難波まで行ってしまった。
さすがに稽古不足の身に二部錬は厳しい。

「崩れない剣道」を目指すがこれは容易では無い。
いや、まったく出来なかった。相手から見たら居付いていたと見えたかも知れない。

もう少し寒くなったら打ち込み切り返しで身体をほぐそうと思った。
動かないのと動けないは違うのだ。
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No.74(昭和62年7月1日)

2019年10月14日 | 長井長正範士の遺文


ここでいう日本的とは、例えば出来るだけ私情をいれず、その催しの概説をのべ、
公演の意義にふれ、さらには公演にいたるまでの関係各位の労をたたえる、
といった“ごあいさつ”をさす。日本人のあいだでなら、それで十分足りる。

私ども日本人は、日常そういうことに忍耐するように馴らされている。
更に言えば、言語というものは、魅力のないものだとあきらめてもいるのである。
この場合、友人が心を暗くしたのは、そのスピーチを
地元のアメリカ人と共に聴かされたということだった。

たとえが悪いが、立小便をしている父親の姿を、年頃の娘が、
たまたま街角で友達と一緒に見てしまった心境に似ている。

言語は、ひとりごとである場合以外は、他者のものでもある。
聴かされる側にとって、自分の時間と体力と、それに相手の言語が喚起(かんき)する
想像力という三つのエネルギーを話し手に提供しているのである。
魅力のない言語は拷問にひとしい。

然も人間は言語こそ、この世の魅力の最高のものだ、と、誰れもが意識の底に思っている。
乳幼児は言語こそ発せられないが、たえず母親の言葉によって
聴覚を通し大脳に快く刺激をうけつづけている。

人間が最初に出会う“芸術”は絵画でもなく音楽でもなく言語なのである。
やがて言語の意味を解するようになると、母親が話してくれるお伽噺に
宇宙のかがやきと同質のものを感じてしまう。(中略)

話し手の正直さこそが言語における魅力をつくるだすということである。
それが唯一の条件でないにせよ、正直さの欠けた言語はただの音響にすぎない。

幕末以来、日本の外交態度について、欧米人から、この民族は不正直だといわれつづけてきた。
私は日本人は不正直だとは決して思わないが、然し正直であろうとすることについての
練度が不足していることはたしかである。
ナマな正直はしばしば下品で悪徳でさえある。
ユーモアを生み、相手との間を水平にし、安堵をあたえ、言語を魅力的にする。

もしニューヨークでの歌舞伎の開幕前のスピーチで、えらい人が、
じつをいうと私は日本人のくせに歌舞伎には関心がうすく、身巧者ではないのです。」
と正直に言ったとしたら、もっとすばらしかったろう。

たとえば以下のように。

「・・・・・私が半生無関心でいつづけたあいだに、歌舞伎は世界に出てしまったのです。
ぜひきょうは皆さんのまねをして、私も後ろの席で見ます。
芝居が終わったあと、どこがおもしろかったのか、こっそり耳打ちしていただけないでしょうか」

先日、英国のチャールズ皇太子のさまざまなスピーチが日本じゅうを魅力した。
言ってみれば練度の高い正直さというべきものだろうか。
言語化された人格がひとびとの心をとらえたばかりか、
その背後の英国文明の厚味まで感じさせてしまったのである。
日本人は喋り下手だといわれているが、それ以上に、正直さに欠けているのでないか。
政界のやりとりをみると、ついそう思ってしまう。終り。

以上は昭和61年6月2日サンケイの「風塵抄」から。
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もっと気楽に剣道を楽しめば良いと思うこともある。

2019年10月13日 | 剣道・剣術


六段受審は「30回を超えた頃から数えていない」という超ベテラン五段剣士に、
「剣道をする目的は何ですか?」と聞いたら「よくわからない」という。

「六段が目標ですか?」って聞いたら
「実は受けるのイヤになってきてる」と言う。

稽古のたびに、ああだこうだとうるさく言われ、
それがどうやらストレスになっているようなのだ。

つづいて「もう剣道やめようかな・・・」と、ぼそっと言うので
「そりゃおかしいでしょ」と切り出した。

私:ではなぜ熱心に稽古されてるんですか?
彼:稽古したらスッキリするんや。
私:それでいいじゃ無いですか。それで十分ですよ。

彼は稽古には熱心だ。ほとんど欠席せず稽古に来る。
しかし、悪いが、まぐれでも六段合格は難しいレベルである。
それで周りから「ああだこうだ」とアドバイスされる。
時にはボロクソに言われ、それが彼には大きなストレスになっているみたいだ。

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稽古して汗かいてスッキリするのも良し、
仕事のストレスを稽古で解消させるのも良し、
終わったあとのビールが旨いという理由でも良し、
健康維持でも暇つぶしでも良い。
剣道を通じての人間関係が好きだと言うならそれも良し。

いろんな楽しみ方がある。
どれが正しいなんてありませんよ。

自分としての「剣道の目的」を明確にして、
周りから何と言われようとも「剣道を楽しむ」という姿勢で貫き通すのもありですよ。
だから「やめようかな・・」なんて言わんでください。

そう忠告しておいた。
いや、お願いなのかも知れない。

------------

どう指導しても直らない不器用な人もいる。
でも剣道が好きで稽古熱心な人もいるわけだ。
自分の剣道の目的が何かを、まず自分自身ではっきりさせて、
そして自分のペースで剣道を楽しんで欲しいと思う。
せっかく長く続けてきた剣道を、簡単に「やめる」なんて言わないで欲しい。

だから今後の審査は無理して受けなくて良いと判断した。
受け続けるから受からせたいと口うるさく指導をしてしまう。

着装の乱れ、竹刀の握り、構え、左足の向き、踵を着くクセ、
このいずれかを一つか二つ直せたら六段審査に向けての指導を再開してみよう。

一つでも直せたら「やる気が出てきた証拠」と思う。
目標が出来たら、きっと人生にもそれなりの深みが出来てくると思うのだ。

今はただ「無心に剣道を楽しむ」だけで良い。
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【思い出】お母んの春菊のおひたし弁当

2019年10月12日 | 食べ物の話など
中学校の時は弁当を毎日持っていった。
お腹の空く年頃で、朝食べて、昼はお袋の弁当を食べて、
授業が終わったら学食でパンかうどん食べて部活して、お腹ぺこぺこで帰宅していた。

当時の小遣いは月に300円。
パンは小さい物でも10円、素うどん(かけうどん)は30円で、
いつも慢性的な金欠でお腹が空いていた記憶がある。

何より昼食の弁当が楽しみで、前の晩の残り物中心の弁当でも、
育ち盛りの私にとっては昼食の時間が何より待ち遠しい毎日だった。

その頃の弁当箱は市販のアルマイトの弁当箱で、
ご飯とおかずが簡単な仕切りで仕切られた普通のもの。
しかし市販の弁当箱ではかなり大き目の弁当箱だった。

私は小さい頃から野菜が嫌いで、特に春菊(菊菜)のように、
少し香りのある野菜はほとんど食べないことが多かった。
晩御飯に出てきても食べないでいて母親に叱られることが多い。


(Wikipediaよりお借りした春菊の画像)


(クラシルからお借りした春菊のおひたし画像)

弁当にも野菜の煮付けなどが時々入るが、まあ我慢して食べていた。
ある日、楽しみの弁当箱を開けたら、おかず入れの3分の1が春菊のおひたしだ。
反抗期だった私は「こんなもん食えるか」とそのまま残して帰った。
叱られるかも知れないと思っていたのに何も言われない。

翌日、弁当箱を開けたら、おかず入れの半分が春菊のおひたしだった。
頭にきて、その日も春菊のおひたしを残して持ち帰った。
やはり母親は何も言わない。

その翌日、弁当箱を開けたら、おかず入れの全部が春菊のおひたしだった。
春菊の緑とご飯の白のコントラストは衝撃的で、生涯で一番驚いた弁当だろう。

いつも友人たちと一緒に食べる弁当だったがその日は一人で食べた。
誰にも見られたくなかったのだ。春菊は我慢して全部食べた。

無条件全面降伏である。家に帰って母に詫びた。
「これからは残しませんので普通の弁当に戻して欲しい」と。

晩年の母に聞いてみたら「憶えてへんなあ」と言う。
私にとっては忘れられない衝撃的な事件だったのに。
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木曜会定例稽古(2019年10月10日)

2019年10月11日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)


四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時過ぎから21時25分まで。今年34回目。
参加人数25名ほど。涼しくて稽古日和。
素振りのあと3人組で切り返しと基本稽古。

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---10月6日の中央審査の話---
三段以上の昇段審査で上体から突っ込むような剣道では合格しない。
しっかり自分の打ち間に入って、そこから一歩で打てることが大事。

二段の審査で受からなかった者が多かったが手と足がバラバラでは合格しない。
気剣体の一致、つまり声が出て竹刀と身体の動きが連動してることが大事。

審査で、打突後の体捌きが悪い者が目立った。
そのまま抜けて行って振り返ると間抜けに見える。
肩残心をして、余裕をもって振り返って相手と向き合うこと。

---剣道の目的---
剣道の理念は「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」。
驚懼擬惑を払拭して、ここだと思ったら己を信じて打ち込んでいく。
そこには迷いの無い「自分自身の生き方」にも通じるものがある。

「当て合う剣道」と「捨て合う剣道」は違う。
腰からの打突は捨て切るところから生まれる。
当てよう、打たれまいとする剣道では審査は受からない。


(まずは素振りから)

素振りはアゴを引いて背中に緊張感を持たせること。
右足が出たときに左足が捲くれ上がることのないように。
(踵が上がり過ぎることのないよう常にヒカガミを伸ばすこと)

---稽古の中で---
基本の練習は、筋肉に「正しい動き」を憶えさせるためにある。
「攻め入り」というが「入り」と「攻め」は違うと考えたほうが良い。
攻め入ってしまうと相手の警戒心が出て打たせてくれない場合が多い。
そういう場合は剣先の延長線が相手の左眼につけたまま、すっと入る。

ちょこちょこ入る、大きく「すぅーと入る」の使い分け。


【感想・反省点】

先週やった「攻め入り」の稽古と、
今週の「入りと攻めは違う」の稽古は言葉は似ていても理論が違う。ここ重要。

なおかつ、基本稽古での「相手を引き入れ迎い(むかい)打つ」の稽古は、
前の2つと合わせて、それぞれ相手や状況に応じて使い分けしなければならない。
(また課題が増えたぞ・・)

基本稽古で「真っ直ぐ入る稽古」をしたが、
相手が1センチでも右(自分から見て左)から入ったら圧迫感が無い。
私も右から入るクセがあるので、これは気をつけ直したい。
右足を前に出して入る・・というより、左足左腰で右足を押し出す感じが良いかも。
また構えで左足が開いてしまうと横から入る原因になるのかも知れない。

----------------

以下、備忘録。

心気力のともなった気剣体の一致の技。

心=知覚、判断する心の静的なもの
気=意志、活動を起こす動的なもの
力=五体(自分の身体全体)の力、竹刀で打ち突き、踏み込む力

気剣体一致の技とは、気合、体捌き、竹刀の動きが一つになっての打突。

-------------------

審査における有効打突について。(誠先生の剣道教室より抜粋)

ー要素ー(構え・攻め)
①姿勢・・・・・・は、適正で、
②気勢〈発声〉・・は、充実し
③間合い・・・・・が、明らかで
④体捌き・・・・・と
⑤手のうちの作用・を用い
⑥機会・・・・・・をとらえて、

ー要件ー(打突)
⑦打突部位・・・・を
⑧竹刀の打突部・・で
⑨刃筋・・・・・・正しく
⑩強さと冴え・・・のある打突であったか。そして

ー残心ー
⑪気構え・・・・・と
⑫身構え・・・・・を整え、十分な気位で次の打突のための準備ができているか。

上記の「要素・要件・残心」の有効打突の構成要件が、
繰り出す技の一本一本に満たされているか、
そしてそれが受審する段位にふさわしいかを審査しています。
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長正館定例剣道稽古(矢田中学校、2019年10月9日)

2019年10月10日 | 剣道・剣術
大阪市東住吉区の矢田中学校の体育館で毎週水曜日19時半から。
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【長正館練習生募集中】
初心者、元経験者、有段者を問わず募集中。
レベルに応じて個別指導を行います。
詳しくは長正館ホームページまで。
http://doujyou.net/choseikan/
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本日も先週に続いてカギ当番。18時50分に到着。
けっこう涼しい。稽古をするにはちょうど良い感じだ。
小学生3名、初心者1名、大人11名で計15名。


(準備運動と素振り)


(切り返しと基本稽古)


(同じく)


(初心者は井上館長が指導)


(同じく)


(稽古終了)


【感想・反省点】

初心者のMさんは、小野派一刀流もやりたいらしい。
「頭混乱しない?」って聞いたが是非やってみたいそうだ。

ほとんど稽古に来なかったS田五段が稽古に復帰。
何でも夏の稽古で体調が悪くなり真夏の稽古は意識して休んだのだとか。
基本稽古の構えと打ちを見ていたがブランクは感じられなかった。
来年の六段審査には挑んでみたいとか。楽しみである。


(上の写真の拡大画像・・S田五段の構え)

背筋が立って腰を入れ、構えが非常に安定している。
剣先も高過ぎず低過ぎず、真っ直ぐ相手の正中線を向いている。
重心はやや前、力の配分は左足にかかっている。
10人ほどの基本稽古の中で一際目立つ良い構えだと思った。

小学生のA君とK君の試合稽古をしてみた。
小学生試合稽古は何年ぶりだろう。ともかく試合の所作を覚えるため。
声が二人とも小さいので注意する。気合を出さないと元気も出ない。

-------------------

自分の稽古では出来るだけ崩れないように意識してみた。
打った打たれたは結果と考え、崩れない自分自身が稽古だと考えた。
攻めを継続させながら中段の構えを維持する。
少し気が緩むと左足が横を向く。右拳が鍔から離れる。重心が右に掛かり過ぎる。

打たれてもよいから崩れない剣道を優先させる。
そう思ってはいても「打ちたい打たれたくない」は出てくる。
攻防の中でけっこう崩れる。崩れては反省の連続。

驚懼擬惑の克服。難しいが今一番の課題としたい。
いやはや・・これは大変だ。。。
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No.73(昭和62年7月1日)

2019年10月09日 | 長井長正範士の遺文


○日本人にユーモア感覚あるか。
と題して前駐日大使コータッチ氏が去る3月5火(木)のサンケイ新聞の正論に
寄せられた記事をひるがえって見たい。以下氏の正論の要約をさせて頂く。

“北斎は最高のユーモア家”ユーモアは外国語に翻訳するのが非常に難しく、
ユーモアの多く、特に皮肉と風刺はその国の国民と、その国の出来事を知らないと分からない。
日本人のユーモアセンスが一番よく分かるのは絵画だ、と私が考えているのは多分そのためである。

中世の一部の絵巻物は、サムライや僧侶といった真面目過ぎる人々のうぬぼれを、
からかっているために非常に面白い。私の考えでは北斎は日本で最高のユーモア家である。
彼は他の画家が真面目なものとしか見なさないものに、こっけいさを見出した。

美というものは真面目であると同時に、こっけいでもあるということが彼には分かっていたのである。
日本人のユーモアは、しばしば泥くさい。
(中略)泥くさいユーモアを野卑だと単純に非難してはならないが、
ここに、日本人のユーモアセンスのもつ問題点の核心があると思う。

日本人のユーモア文学の大半は大衆的である。
狂言は能楽を好む貴族的な観客を楽しませるために作られたものと思う。
能楽自体に、ユーモアが入り込むことは、ゆるされなかったからである。
然しシェイクスピア劇では、ユーモアの要素は大悲劇の中でさえ
観客に悲劇と喜劇のバランスを見失わせない限りでは、不可欠と見なされたのである。

膝栗毛の弥次喜多は理解しやすい喜劇的人物であるが、
シェイクスピアのフォルスタッフやデイケンズの「ディビット・カッパーフィールド」の
ミコーバー氏ほどの性格の深さはない。

私は故、源氏鶏太のユーモア小説が大好きで、その一部を英語翻訳した。
城山三郎や、井上ひさしのような作家も、ユーモアセンスを持っていると思う。
然し、日本の批評家は、ユーモアセンスを高く評価していないのではないか。
私の見解では、それは高く評価すべきものである。

“楽しい川柳のウィット”口語体のウィット(機知、才気の意)は特に翻訳が難しい。
私は大抵の川柳は説明してもらえないと、そのユーモアが理解できないことを白状しなければならない。

(中略)日本の政治家が何人ぐらいユーモアセンスをもち、それを使っているであろうか。
政治家たちは、斉藤英四郎氏や本多宗一郎氏のような財界首脳から学べると思う。
このお二人は、真のユーモアセンスをもっていると私は考えている。
その秘訣は、自分自身をあまり生真面目に受けとらないところにある。
“マジメ”の過剰は身体にも精神にも良くないのだ。
以上がコータッチ氏の考えであり、少くともイギリス人はそう思っているのである。
では日本人はどう考えているのか、ここに有名な司馬遼太郎氏に登場して貰い
司馬氏のお言葉を拝聴したい。以下司馬氏のお説。

○言語の魅力=練度高い正直さがカギ
ニューヨークに滞留していたとき、歌舞伎がやってきた。
見に行った同行の友人が暗い表情で戻ってきた。
歌舞伎はすばらしかったが開幕前、ロビーで日本のえらい人のご挨拶があったのをきかされて、
滅入ってしまったという。日本的な規準でいえば、別に悪いスピーチではない。続く
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灯油ランタンのオイル漏れ修理

2019年10月08日 | つれづれ


50年前の灯油ランタン。昔、次兄から貰った古い物。
最近は毎晩のように工房で灯しているが妙に灯油臭いのだ。
灯油が漏れている感じはしないので臭いのは古い灯油のせいかと思っていた。

灯油が切れたので裏返して見てみたら小さなサビの部分がある。
ためしに目打ちで突っつくとスポッと穴が空いた。
あれれと周囲を突っついていくとどんどん穴は広がる。
半世紀も眠っていたので中はボロボロなのだろう。


(最初は上の小さな穴一つだけだと思っていた)

さっそくハンダで修理することにした。
まずは周辺をリーマーで削って下地を出した。
用意するのはフラックスと金属加工用のハンダとハンダごて。
フラックスをを塗って60wのハンダごてでハンダを溶かし穴の周囲まで広げた。
あとはフラックスを水で洗い落して完成。



完璧と思ったので灯油を入れてみたら僅かに滲んでくる。あららやり直し。
ハンダ吸い取り器でハンダを吸い取り、リーマーを使ってやや広めに下地を出す。
何だか穴は大きくなったみたいだ。で今度こそ完璧。


(だんだん大きくなった2回目の穴)

ところがマシになったとは言え、ほんの僅かに灯油が滲みだす。
で、ハンダで埋めるのは止めて板金加工をすることにした。

工房にあった0.5mmの銅板を適当に切ってヤスリで形を整え予備ハンダする。
灯油ランタンには銅板より大きめに下地を出した。
ここでもう2つの穴を発見する。穴はだんだん多くなり大きくなった。

ランタン側に予備ハンダを行い、銅板を合わせて溶かし込んでいく。
思ったより大きめの修理になったが完璧だと思ったので水で洗って完了。


(周辺を探ると穴が大きくなって増えていく)


(銅版を切って穴に合わせる)


(合わしたところ)
(左上の穴は新たに発見した穴で、これはそのままハンダで塞いだ)


(本体に予備ハンダをする)


(銅板にも予備ハンダ、ハンダ作業は黒いゴムマットの上でする)


(胴板を裏返して乗っけてから溶かし込んでいく)


(溶かし込んだら水で洗って完成)


(良い感じに灯っている)

灯油を入れて火を点けて確認したが今のところ大丈夫のようだ。

昔から古い物を修理して使い続けるのが好きだ。
我が家には大事に使っているわけでは無いが妙に古い物があったりする。
私に本格的な修理は無理だが簡単な修理なら出来る。
簡単な修理で寿命が延びるならながく使ってやりたいと考えている。
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恒例の秋の旅行(2019年10月5-6日)

2019年10月07日 | 旅行や街角メモリー
3日が結婚記念日で5日が女房の誕生日(今年5?才)でなので、
毎年10月の第一週は予定が無い限り旅行と決めている。

いや、今回も剣道と一刀流の稽古の予定と、
五段までの審査会があったのだが旅行を優先させてもらった。

この時期はまだ中途半端に暑かったりして紅葉にもまだ早く、
そのせいか、どこに行っても比較的空いているのはありがたい。

宿泊地は兵庫県の日本海側の湯村温泉。
真っ直ぐ行くのは勿体無いので、行きは鳥取の白兎神社と鳥取砂丘、
帰りは竹田城址に寄ったが、歩き疲れてけっこう早く帰ってきた。
時間的に稽古に行けなくも無かったがそんな元気は残っていない。

そう、もう若くは無いのだ。


(前日4日は自宅で長兄と酒を飲んで大騒ぎ)


(まずは白兎海岸の白兎神社へ)


(白兎神社の参道から白兎海岸を見る)


(鳥取砂丘)


(鳥取砂丘)


(鳥取砂丘)


(鳥取砂丘)


(鳥取砂丘)


(旅館に着いてから温泉街を散策)


(夢千代像)


(正福寺の石段前)


(夢千代館にも寄ってみた)


(結婚38周年に乾杯)


(竹田城址)


(竹田城址)


(これは観光案内所の写真をバックに撮ったもの)


(同じく)


(走行中は警告灯が点きっぱなし・・帰りの一般道で運転しながら撮ったもの)

初日、中国道に入ってデリカスターワゴンの警告灯が時々点灯するようになった。
A/T TEMP警告灯と、充電警告灯。周期的にこの2つが点いて、しばらくすると消える。
「この旅行は大変な旅行になるかも知れないなあ」と思って冷や汗出たが、
エンジンの調子は良く、2つ一緒に点くのは、きっと表示系の故障だと考えた。
そのうち慣れてきて気にならなくなって、そのまま無視して走り続けた。

良い子はマネせぬように。
高速道路でのエンジントラブルは命取りだ。
(20年ほど前に東北自動車道でセレナのエンジンが突然死んだ経験あり)
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No.72(昭和62年6月21日)

2019年10月06日 | 長井長正範士の遺文


胸をおどらせる。胸をこがす。胸を借って。胸算用。肩をもつ。肩で風をきる。
肩入れ。肩を並べる。背をむける。背に腹は変えられぬ。腕前。腕がなる。腕によりをかける。
腕をふるう。腕をこまねく。手腕。手を貸す。手ごわい。奥の手。その手に乗るな。
手を加える。手にあまる。手をやく。秘密を握る。爪をとぐ。爪に火をともす。
爪の垢を飲ませたい。爪をかくす。指をくわえて見る。肘鉄砲。腹太い。腹黒い(悪い)。
腹を合わせる。腹が立つ。腹をさぐる。腹にいちもつ。腹の虫が納まらぬ。腹を割って話そう。
へそ曲がり。へそくり。へそで茶を沸かす。本腰。腰が低い。腰を入れる。腰を据える。
腰くだけ。腰が軽い(重い)。尻が軽い(重い)。尻が長い。尻にしく。尻ぬぐい。
尻の穴が小さい。膝詰め談判。脛に傷もつ。親の脛かじり。足が出る。足を洗う。足をとられる。
足並みそろえる。等々挙げて見ると澤山あることに気ずく。

又内臓についても、一層精神的な会話にその名前をつかった。
例えば、脳裏にひらめく。肺腑をえぐる。肝に銘ず。肝が太い。肝をつぶす。肝を冷やす。
肝いり。肝胆相照らす。心臓弱い(強い)。脈がある。血気盛ん。血が通う。
血を血で洗う。血をわける。息が合う。息き詰る。息ぬき。息巻く。断腸の思い。
等々がある。次に武士の刀剣類も生活用語に今もとけこんでいる。即ち鍔ぜり合い。
目ぬき通り。せっぱつまる。鎬をけずる。刃が立たぬ。鞘あて。鉾先をむける(かえる)。
真剣になる。槍玉にあげる等。

○ユーモア感覚と国民性について。
1)フランス人は冗談を半分も聞かずに笑う。
2)イギリス人は最後まで聞いてから笑う。
3)ドイツ人は一晩考えてから笑う。
4)日本人はにこにこ笑っているが全然わかっていない。
5)アメリカ人は決して笑わない。
なぜなら、大抵の冗句は既に知っているからだそうである。
然しこのような憎い冗句を作るのはアメリカ人だそうだ。

でもこの中でイギリス人のユーモアは仲々味があって面白いのが多い。
さすがゼントルマン紳士の国と自認するお国柄である。
いつかサンケイ抄に書いてあったが、その1~2を拾ってみると。

イギリスの議会で、ある独眼の大臣が「世界見渡せば云々」と演説を始めた途端に、
野党議員の中から、すかさず「片眼で何が見える?」というやじが飛んだ。
するとその大臣は落着いて「一目瞭然」と答えたので、議場はどっと沸き、
やがて万雷の拍手が起こったという。

これが日本の議会だったらどうであろう。差別用語も甚だしいではないか。
チャールズ皇太子が日本へこられた時もユーモアのセンスを巧みに発揮された。
又、議会で獣医を開業する国会議員が、演説中、反対派の議席から「獣医」とヤジが飛んだ。
それを受けた議員、やおらヤジの席を向いてやさしくほほえみ乍ら
「あなたも診察いたしましょうか」と切返したそうだ。

駅のトイレの落書きにも冗句が光るそうだ。
「もし君がこれを読んでいるなら、君は正しい方向に向いていない。
初心者よ!両手でもってせよ!清掃係より」
「小便するところに、なぜたばこを捨てるのか。
湿って火がつきにくいではないか!貧乏人より」。

前駐日英大使、サーヒュー・コータッチのご指摘じゃないが、
どうも日本では、むやみと悲壮がったり、深刻ぶったりする論調があふれている。
善くも悪くも“マジメ過剰”のあらわれ、これでは川柳、狂歌のもつ輝かしい伝統が泣くだろう。
最近の新聞投稿欄からのを一つ。「数年前、奥さんを亡くしたA君からの法要の案内が来た。
「亡妻○年忌」とある。近頃うわさがあって、その心境は分かるんですがね。
ユーモアは日本では悲しみ?の戯画だと。

続く
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No.71(昭和62年6月21日)

2019年10月05日 | 長井長正範士の遺文


禅をシナに伝えた達磨大師も「理入-行入」の二面を真理体得の二途として示しています。
これに反し、西洋哲学は一面的な「知」の立場に立ち、行(ギョウ)道を伴なっていません。
それを私は早くから、いわゆる哲学の欠陥と感じていました。

哲学が知のみならず、知情意の全体的発動を含む「気」によって営まれ、
それ自身が一つの人生道として立とうとするならば、哲学も行(ギョウ)道をもつべきだと思います。
そしてその行動としては、身を正し、呼吸を調えるという正身正息が最もふさわしいと思います。

哲学はいっさいの理、即ち物の筋合いを広く見渡し、
これを統合し体系化することを仼とするものですが、
哲学者はそれぞれが身体者である故、おのが身の筋合を調え「万物われに備わる」の理を
“身証”すべきではないでしょうか。

哲学は全体の学であり、全体の本義は主客の渾一(こんいつ)にありますから、
対象に向って発動する「知性」のみでは哲学の本格的な原理とはなりません。
哲学はひろく「心性」にかかわる故、品性を高め「気質」を練磨する実践道たるべきものと思います。

武士は武技を修めるためから、正身正息の実践を行ったし、
またその涵養せる気概、正志の、おのずからなる表現としても、身を正しく保っていました。
山鹿素行は赤穂に流謫(ルタク)の十年間「絶えて惰容なし」と
評せられるような風姿、態度であったといいます。

心がけのよい武士はいつ敵に斬りかかられても即座にそれに応じられるように、
たとえ静かに坐していても、改めて姿勢を調えることなしに、
そのまますぐ適切な動に移り得る身構えを保っていたものです。(静中動あり)。以上

※図の英語の解釈は長井が勝手に入れましたもので、
シーは普通の解釈では、見る。観察する。合点する等の意がありますが、
もう少し深く入って「悟る」と解釈しました。

※惰容(ダヨウ)とは、1)なまけたようす。2)だらしない行儀をいう。

以前№68に腹について述べましたが通り、
佐藤通次先生の腹、丹田のお話、引続き哲学と身行についての高説、
誠に有難く私は感銘を受けましたので一応ここまで拝写させて頂きました。

先生の「日本の武道」46頁‐49頁(最終頁)です。
以下又私が思っております、いろいろなこと申し上げる時、
その内容が先生のお延べになっている項目にふれました時は、相前後になるかも知れませんが
先ず筆頭に先生のお話を拝写させて頂きたく御了承願います。この項終わり。

○昔から日本人は人間の体の部分的な名前を日常生活の言葉に使って重に精神的な話題にした。
例えば人体の頭の上から下へ順にあげてみると、毛頭ない。毛並みがよい。
間髪を入れず。頭が低い(高い)。頭角を表わす。頭にきた。眉つばもの。眼をつける。
眼がきく。眼をぬすむ。眼にとまる。眼をかける。鼻が高い。鼻にかける。鼻につく。
鼻であしらう。鼻をおる。口が悪い。口がうまい。口が軽い(重い)。いい口さがす。
口八丁手八丁。舌を巻く。舌先三寸。喉から手が出る。喉元通れば熱さ忘れる。顔役。
顔がきく。顔が売れる。顔にかかわる。顔に泥をぬる。顔から火が出る。顔を貸す。
顔をつぶす。面を斬った。面子にかかわる。顔を出す。人を顎で使う。胸を打つ。
胸に納める。胸にいちもつ。胸が裂ける思い。胸さわぎする。胸にえがく。胸にたたむ。

続く
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木曜会定例稽古(2019年10月3日)

2019年10月04日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)


四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時過ぎから21時30分まで。今年33回目。
参加人数15名ほど。気温は普通。湿度は高い。

素振りのあと3人組で基本稽古。
最後は相面、出小手、相小手面、返し胴の連続技の稽古。
(自分から仕掛けること、一本一本の残心に注意)

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構えが出来ていないと声は出ない。
稽古の時はその会場で一番大きな声を出すつもりで。

気迫は大きな風船を膨らます気持ちで。
パンパンに膨らんだ風船を針で突いて一気に弾けるイメージで打つ。

「攻め返し」
相手が出てくるところ。
相手の左足が引き付けられる前にこちらから入る。
攻め返す時は真っ直ぐ入って中心を取ること。
入ってすぐ打つのではない。(=勢いで打つのではない)
相手が出てくるかどうかは相手の目を見て観察し判断すること。

「審査の2回の立会い」
1回目よりも2回目のほうが重要。
1回目の出来が悪くても諦めないこと。
逆に1回目が良いからと言って2回目で守りにならないこと。

「審査での上段や二刀に対して」
審査の2回の立会いの両方が二刀や上段と当たることはまず無い。
上段や二刀との立会いで「合気の剣道」になるのは難しい。
上段や二刀に対しては打とう打とうと焦らないこと。
二刀に対しては小刀に惑わされないこと。
無理に打とうとしたり避けたり防いだりして体勢を崩さないこと。
相手に打たせてそれを捌くだけでも良い。(位を見せる)




【感想・反省点】

「攻め入り」については自分の重要な課題の一つにしたい。
これは普段の稽古でかなり意識しないと身に付かないだろう。
相手が出てくるところを単純に入ったら深間になるか自爆してしまう。

正しい構え、いつでも打てるという充実した気勢と体勢が無ければならない。
それには気迫という心のエンジンが必要。相手の動きを止めるぐらいの気迫。
発声し風船を膨らませて気迫を充実させて触刃から交刃となる。
その上で相手の動きを察知して、相手の出る動きを制するように出る。
適切な間合い(深く入り過ぎないよう)に中心を取りながら入る。
そこから勢いで打つのでは無く、瞬間動きを止め、一気に打つ。

理屈をわかっていてもなかなか出来るものでは無い。
これはなかなか大変な課題だ。
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長正館定例剣道稽古(矢田中学校、2019年10月2日)

2019年10月03日 | 剣道・剣術
大阪市東住吉区の矢田中学校の体育館で毎週水曜日19時半から。
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【長正館練習生募集中】
初心者、元経験者、有段者を問わず募集中。
レベルに応じて個別指導を行います。
詳しくは長正館ホームページまで。
http://doujyou.net/choseikan/
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本日、カギ当番。渋滞が怖くてかなり早めに出たら案の定18時20分に到着した。
けっこう蒸し暑く風が無い。気温よりも湿度が高いほうが剣道稽古は大変である。
本日の稽古参加は10名。うち超初心者1名。子供(小中学生)は珍しくいない。
超初心者は、先週見学のベトナム人のMさん。


(準備運動と素振り、基本稽古はK芦五段が号令)


(初心者のMさんも見様見真似で素振りをやらせてみた)


(基本稽古)


(井上館長はMさんの足捌きの指導)


(地稽古)








(稽古終了)


(同じく)


【感想・反省点】

初心者のMさんは足捌きからやってもらった。
踵を浮かせて床を滑らせながら前進後退。
左足のヒカガミを伸ばす、頭が上下にならないなど、
剣道で難しいのは足捌きだと改めて思った。

---始礼、終礼で言ったこと---
稽古前の自分の目標を明確にすること。
着装(品)、礼法(格)、構え(品格)、初太刀(覚悟)の話。
稽古が終わったら反省点と次の課題を明確にすること。
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黒板アート(2019年9月30日)

2019年10月02日 | つれづれ
生駒高校の同級生で今でも付き合いのあるY澤君。
9月30日の夕方、ラインで黒板アートの絵を送ってきた。

「明日から10月なので後ろの黒板にこんな絵をチョークで書きました」



彼は奈良県の現役の小学校の先生である。
生駒高校では私とは剣道部でも一緒(すぐに止めたが)だった。

高校時代から漫画はよく描いていた。
絵も上手だったとは知らなかった。まあ一緒か。

「学級の子供たちが喜ぶのでついつい書いてしまいます」
とあるので、きっと毎年毎年せっせと描き続けているのだろう。
黒のチョークも売っているらしい。

定年後も延長して働いているということは良い先生なんだろう。

私も若干のイラストは描くが絵の才能は無い。
頭の中のイメージを自分の手先だけで正確に表現することが出来ないのだ。

こういう先生がいると学校も楽しいだろうなあ・・・

以上、あまりに見事なのでここに紹介しておきます。
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