稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

あえて下の者との稽古を大切にしたい

2016年10月28日 | 剣道・剣術
長い間、ただただ稽古の量さえ多ければ何とかなるのだと誤解していたのだ。
だから師匠を持たず、おそろしく無駄な時間を数十年も費やしてしまった。
師匠が居ないというのは自分の剣風が定まらないということ。
身近な例を、良いとこだけ真似してみても微妙にズレて定着し変なクセになる。

正しい剣道が身につけば、そこが「戻れる原点」になる。
迷えばそこに戻れば良い。そこから新たな冒険が出来るのである。
戻れる原点があるかないかで上達が決まる。
戻れる原点が無ければ剣風はさまよう。堂々巡りの悪循環におちいる。

これは私という経験者が言うから確かだ。
「良い師を3年かけても探せ」は本当だ。
探せなければ10年かけても探すべきだ。
そして戻れる原点を確立しなければならないのだ。


実際に剣を構えて対峙してみると色々なことが見えてくる。
見えてるだけでも駄目でそこから何を学ぶかだ。剣道も剣術も同じ。
学ぼうという素直な気持ちが無ければ稽古はただの運動になってしまう。
運動だけやっていてもある程度には強くなれるがそこで成長は止まる。

上の者から教わるのはもちろんだが、下の者との稽古で教わることも多い。
剣道だと、上の者には掛かるのが精一杯で姿勢も崩れ息も上がってしまう。
下の者だと余裕がある。余裕があるから自分を見つめ直すことが出来るのである。

姿勢や構え、気構えを正したり、剣先の攻めや普段できない技を試してみる。
これで自分の剣風を整える。整えた自分で、また上の者にかかっていく。
下の者との稽古で「戻れる原点」が確認できるのである。

形稽古中心の剣術でも、初心者相手の場合は自分自身の良い稽古になる。
正しい剣術に戻る良い稽古になるのである。
姿勢、間合い、足捌き、機会、刃筋など、修正すべき点は無数にある。

構えた時に緊張感の無い稽古など無駄なだけ。
下の者との稽古で、気を抜いて、ただ打たせるような稽古などしないほうが良い。
これは剣術も剣道も同じ。下の者との稽古こそ重要にしたい。


ある掲示板サイトで見たが、
さほど経験も無いのに、やれ剣道はどうだとか・・だとか、やれ古流剣術は・・だとか、
聞きかじりの知識で剣道や古流の流派を批判している者には嫌悪感を覚える。
中には見学に行っただけでその流派のことを完全にわかったように言う者もある。
自分自身の立ち位置も定かで無いのに良く批判など出来るものだ。
素人なら仕方が無いが経験者なら愚かなことだ。
根無し草の彷徨剣士になってしまう。

批判する前に良い師匠を見つけ稽古されたい。
戻れる原点を確認し、そしてそこから飛躍すべきだ。
剣を交えてお互いに誰もが学ぶ姿勢こそ大切にしたいものだ。
コメント
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