子どもの頃、私は市営住宅に住んでいた。そこは戦後、引揚者向けに建てられた棟割り長屋が連なっており、大きな道路と狭い路地で区画された250戸ほどの団地であった。
私の家の斜め向かいに米屋があり、よく電話の取次ぎをしてもらった。米穀通帳が生きていた時代である。その路地向かいは八百屋であり、夏には店内で子供向けにかき氷を出していた。また小さな広場を隔てて魚屋があった。そのほか歩いて数分のところに豆腐屋、食堂、酒屋、床屋、貸本屋、駄菓子屋などがあり、日常生活は町内で充足することが出来た。その多くは狭い家の一部を改造したものである。隣の家は庭に鶏舎を作り、自宅で卵を売っていた。当時、一個十円ほどだったと思う。
これらの店の人達とは顔馴染みのご近所さんであり、よく声をかけてもらった。スカばかりのくじを売っていた駄菓子屋の親父は、夏休みのラジオ体操の世話をし、時には町内の子供たちを引き連れて映画館に行った。ある日、広場にある防火水槽のプールが清掃され、子供水泳大会が行われた。長さがたった10メートルほどの防火水槽であるが、なんと駄菓子屋の親父が大会委員長然として本部席の真ん中に座っているのにはびっくりした。
また団地の道路は子供たちの遊び場でもあった。そこで缶けりや鬼ごっこ、陣取りなど色々な遊びを楽しんだ。紙芝居屋が拍子木を打ちながら路地を回り出すと、子供たちは小銭を握りしめて広場に集まってきた。
そしてポン菓子の製造や菱の実売り、みたらし団子売りなども道路が商売の場所だった。夏には風鈴売りが来たこともある。夕方になると米屋の店先には縁台が出され、大人たちが将棋に興じた。店のラジオからは広沢虎造の浪曲が聞こえてきて、その横を歩いていると、どこかの家で魚を焼く香ばしいにおいが漂ってきた。
酒屋の前での酔っぱらいの喧嘩や、八百屋の娘が花嫁衣装で家から出て来た時は、道路は見物人で一杯になったものである。
やがて時が経ち、市営住宅は住民に払い下げられて殆んどが建て替わった。当時の小父さん、小母さんたちの多くは他界するか施設に入っている。そして住民の生活需要を賄ったこれらの小さな店は、時代の流れに逆らえず今ではすべて消えてしまった。
子供たちは外で遊ばなくなり、また道路は生活の場ではなくなった。今では子供たちの姿も、道路で寛いでいた大人たちの姿も消え、ひっそり閑とした風景が広がっている。
かつては店で買い物をする人や、道路で遊ぶ子供たちで賑やかだった
当時の広場は雑草で覆われている。昔は防火水槽の金網は無かった。生い茂る水草にはトンボが卵を産み、ゲンゴロウやタガメ、アメンボなど、水生昆虫の絶好の観察場所だった。
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