渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

RZR+YUZOチャンバー

2019年03月27日 | open


大垂水峠にて

こいつを完全レストアしたい
が、かなり時間がかかる。
このマシンも無転倒。
このクロスチャンバーは世界
にこれだけだ。
シリアルナンバーではなく、
私の名前の刻印入りだ。
ユーゾーさんに貰った。
いつも「そんな乗り方するな
らバイクなんてやめちめえ!」
とか言ってたけど、おいらに
くれた。
おいらの右手のアクセリング
はユーゾー仕込み。
バイクであのきったねーねぐ
らに行くと、すぐに排気管を
指で触られた。
少しでもベタってると、
「やめちめえ!」だ(笑)。
二言目には「やめちめえ」。
「もう耳にタコっすよ」と言
うとマジ切れされた(笑)。
容姿は違うが、ララバイに
出て来たタコ坊主オヤジは、
もしかすると雄造さんがモデル
ではなかろうか。
あんな感じの人だった。



映画のミス 『彼のオートバイ. 彼女の島』

2019年03月23日 | open



音大生だった主人公のコオ
(竹内力)は、原稿輸送
プレスのアルバイトをしていた。
この日も事故現場に駆けつけて、原稿をその場
で書いた記者(小林稔侍)から原稿を受け取る。
そして「いいか!しっかり届けろよ!」と言われ
る。

だが、次の瞬間、書いた原稿を入れた封筒から
原稿が落ちてしまっている。
そのままコオは足早に移動する。
これは監督も気づかずにこのままOKを出して
しまったのだろう。

こうしたミスは多くある。
『たそがれ清兵衛』では、大杉漣さんが大きな
指輪をしたままで映像に収まってしまっている。
また、『汚れた英雄』では、オープニングシーン
で主人公北野晶夫(草刈正雄)がヘルメットを被っ
てマシンを押して走り出すシーンで、ヘルメット
の顎紐がぽろんと解けて垂れ下がる。あれでは
走行中止させられる。

この手の、取り返しのつかないミス映像は映画
作品にはとても多く見られる。


映画『野性の証明』(1978)

2019年03月10日 | open


(1978年角川)

昨夜、仲間からBSで『野性の
証明』を放送していると連絡
があり、観た。
日本の暗黒時代到来の近未来
を描いた森村誠一原作の小説
を角川春樹が映画化した。
まだ15才の薬師丸ひろ子の演
技が光る。
映画では1980年の未来を描い
ている。
その頃の日本は、非公然に自
衛隊内には政府に反対する国
民を暗殺する「特殊工作隊」
が秘密裏に創設されていた。
その部隊の秘密訓練中に、主
人公味沢(高倉健)は、山中の農
村で風土病により村民が村民を
殺戮しているところに出くわし
てしまう。
民間人との接触を禁じられてい
るサバイバル訓練の最中、味沢
は、その殺戮者を葬って唯一生
き残った村民の少女を助けてし
まう。
少女は過度のショックから記憶
喪失になったが、味沢は、自衛
隊を辞し、民間人となってその
少女頼子の養父となり育ててい
た。
だが、非公然秘密部隊の存在が
世間に漏れる事を恐れた防衛庁
陸上自衛隊は、味沢を殺害する
ために部隊を派遣するのだった。

薬師丸ひろ子が可愛いの!


この映画は、1978年当時存在
しなかった迷彩服と、まだ採用
されていない5.56ミリ口径の自動
小銃を部隊に装備させている。
近未来を予測して角川が考案して
設定したものだ。


銃は現在の自衛隊制式小銃と
なった89式のベースであるア
ーマライトAR-18である。
この優れた小銃を元に日本の
89式と英軍のL85軍用小銃は
作られた。

北米ロケでは実銃が使われて
いる。
高倉健は、実にリアルに特殊
部隊の鉄則通りにダブルタップ
で全て射撃していたが、音声
ではフルオート音となっており、
せっかくの迫真の演技が考えの
足りない演出により台無しにな
ってしまっている。
健さんは、ショートにタタン、
タタン!と正確に2発ずつ射撃
している。

この迷彩服は、角川が近未来
を想像して創作した当時には
どこにも存在しない柄である。




この映画のメッセージ性は大
きい。
5.56ミリ口径小銃も、この迷
彩柄のカラーも現行では自衛
隊に配備されるようになった。
特に恐ろしいのは、この迷彩
カラーは、都市ゲリラ戦につ
いて最大の効果を発揮する柄
物であるところだ。自ずと配
備の意図は見えてくる。
銃口はどこに向くのか、とい
うことが。
今、すべて現実となっている
のだ。

映画の中では、正義感溢れる
刑事(夏八木勲)が味沢と特殊
部隊について怒鳴る。
「ここは日本だぞ。お前も外
の奴らもみんなキチガイだ」と。
カタカナ部分は放送ではサイ
レントでカット。
味沢は言う。
「正義だとか法律だとか言っ
ていたら、ここにいる我々は
みんな殺されてしまうんだ」

この味沢の言葉は、実はこの
1978年当時も、そして今も
「リアル」なのである。
国家権力は平気で国民を殺す。
そんなことはあり得ない、と
思っているとしたら、それは
あまりにも平和ボケのお花畑だ。
戦後の巨大3大事件で人が消
されて行ったのにも日本政府と
CIAが深く関与している。
権力というものはそういうもの
だ。
米国などはツインタワーを自分
らで爆破させてまで権力の発動
を為す。国民を殺して。
そもそも、大統領が何度も暗殺
されても、真の黒幕は捕まらな
い。捕まる訳がない。国家が
やっていることだからだ。権力
を握る者たちが。

映画『野性の証明』で描かれた
特殊部隊も銃も迷彩も、それを
支える体制も現代ではすべて
整った。
だが、当時とは状況が異なる。
情勢ではなく、情況が異なるの
だ。
それは、多くの国民はポチの
さらにポチとなり、異議を唱え
なくなったことだ。
これは、当時の国家権力とし
ても、ここまで国民洗脳がう
まく行くとは想像していなか
ったのではなかろうか。

自衛隊だけでなく、国家の暴
力装置たる警察においても、
非公然部隊が創設されて活動
している。それは警察OBから
も「民主主義を逸脱しすぎだ」
と批判されている部門だ。
国民の情報操作をしたり、有
力人や芸能人のスキャンダル
をねつ造したりして人心操作
を行なっている。
そうしたことは、日本征服が
貫徹されたから可能になった。
その部隊のメンバーは、「内
閣事務官」という肩書きで内
閣情報調査室に出向したりし
た経験や外事課所属の経験を
持つ警察庁のキャリアによっ
て構成されている。表向きは
別な公的な肩書きを持っている。
そして、彼らの本当の職務は、
日々、非公然の非合法活動を
している。
法律などは関係ない。
権力の行使とは、法律などは
関係ないのだ。

ただ、そうした組織は、「内
部調整」で描いた絵を実行す
るためには内に向けてでも何
でもする。
「事故死」「自殺」。これは
彼らの人命
抹消の常套手段だ
からだ。
身内もなにもない。全ては「描
いた絵」
を軌道に乗せるために
動いて行く。その
ためには、
どんなことでもする。
非公然、非合法活動とはそう
いうものだ。
これは国家権力であろうと、
反国家的秘密結社であろうと
も差異はない。

今更ながら、森村誠一と角川
映画『野性の証明』の警鐘は
大きかったのだが、ほとんど
の国民はただの「映画作品」
の絵空事としてしかこの映画
を観ていない。
実は、恐ろしいまでの超くっ
そリアルな事を描き切ってい
るのに。






発明 ~筑波での逆ハングフォーム~

2019年03月09日 | open



どの世界にも先駆者がいる。
この1987年の日本チャンピオン
の清水雅広選手の筑波第一ヘア
ピンのアプローチでの逆ハング
オンは印象的だった。
だが、500のチャンピオンのヤ
マハの藤原選手もやっていた。
この乗り方は、1984年時点で
既に「平乗り」とレース業界
では呼ばれていた。
1983年まではやっていなかっ
た走法を平忠彦選手が84年か
らやり始めたからだ。
平選手は1982年ゼッケン62、
83年ゼッケン6、84年はゼッケ
ン1だ。以降3年間1だった。

日本チャンピオンが綺麗に決め
ている走法だからか他の選手も
やり始めた。
1982年全日本500チャンピオン
の水谷勝選手もやり始めたが、
なかなかまだ上手くできていな
い映像が現在動画サイトで観る
ことができる。
1986年頃の筑波での全日本レー
スの動画だ。

きかし、私の記憶では、この
走法を最初にやりやり始めた
のはジンプライズの斉藤仁選
手だったように思える。
当時、国際A級(セニア)全日本
選手権ライダーで自分のプロ
ショップ店舗を持っている人
は少なかった。有名なところ
ではヤマハの高井幾次郎選手
が「プロショップ高井」を経
営し、多くの優れたレーシン
グギアをリリースしていた。
高井製品はヤマハ系だけでな
く、後にはケニー・ロバーツ
やフレディ・スペンサーなど
の元世界チャンピオンも着用
するような品質のレーシング
ウエアを製造していた。
国内ライダーの多くも高井製
品を愛用していたが、高井幾
次郎選手が亡くなって以降、
暫く経営が続いたが、現在完
全廃業しているのが惜しまれ
る。

「平乗り」。
実は「ジン乗り」だろう。
ただ、平選手と同じヤマハで
も、本間選手は最後まで通常
の体重移動による切り返しと
寝かし込みをしていた。
どちらがタイム短縮に適して
いるかは、ライダー各人の理
論と走法のマッチによるもの
なのだろう。
私の場合、通常乗りのほうが
筑波ではタイムは出た。
事実として、オーソドックス
な走法でも、本間選手は充分
に速かった。
1987年に限っては、ホンダの
清水選手が手をつけられない
程に速かったが、激戦区のA
級250クラスにおいて、本間
選手は常にトップに割り込ん
でいた。
本間選手は88年に全日本チャ
ンピオンとなるが、ワークス
ヤマハの方針でマシン開発に
重点がシフトしたためなかな
かレースでの戦績は残せなか
ったが、翌年89年には3位に
なっている。

ヤマハはマシン開発のために
レース活動の軸を置くことが
多く、レース参加のみにホン
ダのように集中したならば、
日本からの初世界チャンピオ
ンは1975年の金谷秀雄選手だ
ったことだろう。
だが、ヤマハはマシン開発の
ために世界GPから金谷選手を
撤収させ、アゴスティーニを
チャンピオンにした。
世界GP選手からは大ブーイン
グだった。
ヤマハは後々までもそうした
レース活動をした。
やむなく、ワークスからでは
なく、プライベートとして片
山敬済選手は世界GPに参加せ
ざるを得なかった。
ワークスだとレースをさせて
もらえないからだ。
80年代の本間選手も似たよう
な境遇だったが、それでも、
彼は武士のように忠実にヤマ
ハの仕事をこなした。
速さは世界トップクラスだ。
そのライダーが、マシンの開
発に主軸を置く。
いろいろ辛いこともあったろ
うが、彼は決してボヤいたり、
悪態をついたりしなかった。
偉大だった世界一速い男、世界
の金谷のように。
1980年代当時の彼のサーキッ
トでのインタビューを観ると、
タイムが出ないのはすべて「己
のせい」としている。マシンや
スタッフのせいにはしない。
スズキには、世界GPでも全日
本でもマシンやスタッフのせ
いにする人が続いた。
ジョン・コシンスキーなどは
スズキのバイクをレース中に
立腹して蹴り壊してクビにな
ったし、国内戦でも悪態つき
まくりのワークスライダーも
いた。
本間選手は人としても本物。
レーシングライダーとて、た
だ速いだけでは意味がない。
レーシングライダーである前
に、ライダーは人であるから
だ。
人を思い遣る人の心について
も、本間選手は今ブログでい
ろいろ考えさせられることを
書いている。
東日本大震災の時のダルビッ
シュ投手の言葉が重い。
「野球選手である前に、私は
人だ」
本間利彦氏は、アジアの某国
に小学校を作るボランティア
をやり、自らの出資で無償で
小学校を建設して地元の子ど
もたちの教育環境を整えた。
そういう男、本間利彦。
ただオートバイのレースで速い
だけの人間ではない。