キースを初めて聴いたのがSolo Concerts:Bremen and Lausanne。
レコード3枚組(だったと思うが)でECMレーベルを扱っていたトリオから1973年にリリースされた。
ピアノを習い始めたばかりにも関わらず、生意気にも(?)即興演奏に関心があったので、Solo Concerts:Bremen and Lausanneがリリースされた次の年(だったと記憶しているのだが)のキースのソロを東京文化会館で聴いている。後半ではピアノの内部に手を突っ込み音を出していたことが妙に強く記憶に残っている。当時、文化会館では内部奏法をさせるピアノとそうでないピアノをしっかり区別していたということを聞いたような気がする。
こんなこともあって、キースといえば《ケルン・コンサート》が有名だが、最初のアルバムの方が愛着は強い。
キースは多数のアルバムをリリースしており、すべてを聴いたわけでもないが(とてもじゃないが追いかけきれない)それらでは奔放なイマジネーションを自由にピアノの音で繰り広げてきた。
そんなキースが、どういわけか----と書いてしまいたくなる----クラシック作品を弾いたアルバムをいくつか作っている。そのどれもが「らしく」ない。溢れるようなインプロヴィゼーションをするキースとは思えないほど。
音は美しいのだが、音楽のほうはさっぱり。全体のテンポ設定は遅め、それはすべての音をきっちりと弾こうとしすぎているためと思われるのだが、そのためいつもモタモタ感(関西風にいうなら「どんくさい」)がある。遅くても、音楽がしっかり感じられるならよいのだが、今回のモーツァルトではキースは何を言いたいのかがわからない。
伴奏は、シュトゥットガルト室内管弦楽団-----カール・ミュンヒンガーの名前が浮かぶ----をデニス・ラッセル・デイヴィスが指揮をしていて、この組み合わせによる40番も一緒に収められており、これも遅い、重く粘るような演奏なのだ。だから協奏曲のテンポはキースだけの意思で決まったのはないのかもしれない。指揮者の芸風によるところも大いにある、といえそうだ。
ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488
ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
フリーメイソンのための葬送音楽ハ短調K.477
ピアノ協奏曲第21番K.467
交響曲第40番ト短調K.550
ピアノ:キース・ジャレット
指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス
シュトゥットガルト室内管弦楽団
デニス・ラッセル・ディヴィスの芸風
NAXOSでもDennis Russell Daviesの多数録音がある。
指揮したもの(《惑星》など)やピアノ連弾などもあり、それらを聴いても全体の印象は変わらない。
このブログ、基本的にはネガティブな内容を取り上げることはしないと決めているので、キースのモーツァルトについては、これ以上書くのは止めることにする。
ジャズマンはなぜクラシックをやるのか?
キースにしろ、チックにしろ、ジャズ・ピアニストとして、自由にやりたいことをやってきている。それなのに。
いろいろと理由が思い浮かぶが:
「自由に」「やりたい」ことを、ではなく、正反対となる「規定された」楽譜にしたがって「書かれた」ように弾くという状況に身を置いてみたい、というのが一番の動機だろう。
テーマが終わったら、後はコード進行だけ(あるいはモードだけ)守ってくれれば後はなんなと自由にやっていいよ、といういつもの状況とはまったく反対の、がちがちにかためられた、規則だらけの(と思えるような)音楽が、時には魅力的に見えるのではないか?想像するのだが、かなりあたっているのでは。
チック、そしてキースと同じ曲を聴き比べたのだが、チックの方がいい。
どうもキースは真面目すぎるのではないだろうか?「クラシック」といわれる音楽、そしてそこにつきまとうイメージにはまりすぎて、自由を失っているような音楽となってしまった。聴くほうとしては、もっとキースらしいモーツァルト----チックができたように---を聴きたいと思うのだ。
このモーツァルトと同じアプローチをしたのが《ゴールドベルク変奏曲》。
《平均律》ではそのような堅苦しさから解放されているのが不思議。
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