架空庭園の書

音楽への"homage"を主題として、思いつくまま気侭に書き連ねています。ブログ名はアルノルト・シェーンベルクの歌曲から

アリス・ヘルツ=ゾマーを聴く

2016-03-13 | 音楽

アリス・ヘルツ=ゾマー Alice Herz-Sommerという女性ピアニストをご存知だろうか?

第2次世界大戦では、ナチスドイツが作ったテレジン(テレージエンシュタット)強制収容所を生き延び、2014年2月23日ロンドンで110歳の生涯を閉じたピアニストのことを。

    今、チェコ音楽について原稿を書き溜めており、
    アリスは、テレジン強制収容所をテーマとした章の中心人物となっていて、
    その途中経過として書いてみる。


音楽の歴史からいえばリストの孫弟子となる、そんな彼女の生涯を辿ってみる。

1903年11月26日生まれ、つまりドヴォジャークが亡くなる1年前にプラハで生まれた。このときはチェコという国はなくオーストリア=ハンガリー帝国。
商業を営みオペラ好きの父、ピアノを嗜む母との間にもうけられた5人の子供(男2人女3人)の次女(双子の妹)。

母はモラヴィアのイーグラウで生まれた。

マーラーのファンならばこの街の名前は記憶しているだろう。マーラーは1860年7月7日にボヘミアの小さな村カリシュトで生まれたが、オーストリア=ハンガリー帝国のユダヤ人の居住権に関する法律の変更にともない半年後の12月には一家はイーグラウへ移り少年期まで過ごすことになる。ここでアリスの祖父母はマーラーの両親と親交があり、子供であったアリスの母親はグスタフと遊んだという。この当時のグスタフ少年はすでに少し変わり者だったようで、まわりの子供から笑われていたらしい。アリス自身はマーラーと会ったことはないが、母に連れられて1908年9月19日プラハでマーラー自身が指揮する交響曲7番の初演を聴いている。アリス5歳のときとなる...

こういった記憶が刻まれアリスにとって、マーラーの音楽、なかでもところどころに使われるレントラーやマーチなどがモラヴィアの風景を、そして祖父母や母への思慕を書き立てるものとなっていた。

この当時---オーストリア・ハンガリー二重帝国 では チェコ、ドイツ、ユダヤの3つの文化が「闘っていた」。

アリスは、ピアノを学んでいた姉から手ほどきをうけ、上達した後、リストの後期の弟子であり、フルトヴェングラーも指導したコンラート・アンゾルゲ(Conrad Ansorge, 1862-1930)-が月に1回プラハに赴いて開講するマスタークラス---30人の一人最年少---で3年間学ぶ。アンゾルゲはピアニストとしては優れていたが、レッスンの合間に酒を飲むなど教師としてはそうではなかった。



DVD”The sonder and the grace of Alice Sommer Herz --- EVERYTHING IS A PRESENT"からアリスの言葉をひろってみる。

「人のミスから多くを学べますから。それが最高の教育なのです。」

この間に理論やソルフェージュを学ぶとともにツェムリンスキーの指揮のもとで合唱団として歌を歌う。

「音楽家の人生は、恵まれている(privilege=恵み)。そう信じています。
なぜなら音楽家は朝から晩まで、人類が創造したもっとも美しいもの、すなわち”音楽”に囲まれているのですから」

インタビューでは基本、英語で会話しているのだが、夢中になってくると、言語がドイツ語に変わる。

「人生(Life)は美しいの
自然は素晴らしく
美しいのだから」

「練習は食べ物なのです。」

「住居を追放される前でした。
周りにナチの家庭が3、4世帯ありました。そのころ私はよく練習をしていました。
母を失った私は悲しくてピアノに没頭するしかありませんでした。
毎日 何時間もです。するとある日、下の階から床をたたかれました。
ナチの部屋だと思いました。騒音だったかしら。練習をやめよう、と
練習をやめてしばらくたってから 管理人が来て言ったのです。
”ナチのヘルマンさんから、最近ピアノが聞こえないが移送されたのか?”
”あのピアノが聴きたい。アリスの奏でる音楽が好きだ”そういわれたと。
私はすぐ ピアノに向かいました」

「その後 テレジンへ移送される日の前夜 荷造りも終えた家で
ただ座って待っていたとき訪問者がありました
そのナチ党員でした。そして彼は私に向かい ---
”ゾマー夫人、明日移送されると聞きました。無事に戻ってこられることを祈っています”
私は呆然としてしまいました。彼は私より年上でした。
”健康に気をつけて。
あなたに言っておきたかった。”

”私があなたに心から感謝しているということを”
”私は毎日あなたのピアノを聴くのが楽しみでした。” 
”父はオルガン奏者で---” ”私の家族は全員音楽が大好きなのです。”
”あなたのファンなのです。” ”あなたの演奏によりどれほど勇気づけられたかわかりません。”---
彼がそう言ったのです。」

今でも練習を?

「もちろん」

どのくらい?

「 練習は食物よ 練習は2時間半 毎日」

今 何歳ですか ?

「98歳よ」

「収容所では 100回以上コンサートを行いました。
リクエストによってショパンの練習曲は 20回 ベートーヴェンのソナタは 25回
コンサートを主催する団体が組織されており
そのグループ名は”自由な時間”。

当時、テレジンには9000人から1万人がいました。

街中が群集で真っ黒に見えるのです。 
コンサートをする公会堂には120名ぐらい入れる。
そこでは寒さのために厚いコートを着て帽子をかぶり 長いブーツをはいて演奏をしました。(向かうピアノはアップライト)」

「チフスなどで何千人も亡くなるが 彼ら(音楽家のこと)は健康でした。
それは音楽のお陰です。
演奏できると思うだけで 私たちは幸せでした。 心から幸せでした。
テレジン強制収容所は”音楽の持つ魔法”の証明です。」

「音楽が人間の魂にどれだけ素晴らしい影響を与えるか」

「人生が与えてくれる最も美しいものが音楽です。」

「そして私の人生で....98年間の人生で音楽にどれだけ
助けられ どれだけ人生を美しく彩ってくれたか...
とてもとても苦しい時でさえも
音楽は私に幸せを与えてくれました。」

「明朝4時に集合することと命令されました。
冬の早朝です。冷たい雨が降っていました
厚着をしてパンを持参して 指定の場所に集合しました。

そして何時間も歩かされました。
やがて 止まったのは----
茫々とした広大な野原の真ん中でした。
遠くに人のかたまりが黒々と見えました 黒いかたまりです。
よく見ると それは 男性の集団で私の夫もいました。
寒さの中で子供たちはおびえていました。
小さな腰掛があり、私は息子を片方のヒザに
よそのこを もう片方に乗せて
二人を遊ばせることで時間を過ごしました。
悲しい時間でした。」

「やがてふたりのナチが来て命令しました。
”立て。10人で1列となるように整列しろ"と」

「皆が整列しました。
私は息子を抱き上げました。
銃殺されると思ったのです。
息子とその瞬間を待ち受けていました。
そして次に起こったことは一生忘れられません。
今でも毎晩夢に見ます。
突然チェコ語の大きな叫び声が聞こえたのです。

”小屋(Gethoo)に戻れ!”と 

この”小屋に戻れ”の声は天国と地獄、両方を意味します。

ずっと地獄だったゲットーがその瞬間 天国に変わったのです。
”生と死”に他なりません。
そしてその”天国”に戻ることができました。

そのときの光景、目にしたものをうまく言葉に現すことできません。」

「私の人生を構成するものは---3つあります。

まず”母から子への愛情”です。
これは人間が人間として生きる基礎だと思います。
次に”自然” そして”音楽”。
これが私の信ずるもの。

すべては神からの贈り物
だから すべてに対して感謝するのです。」

このような環境下にありながら、テレジン強制収容所では自発的な音楽活動があった----詳しくはここでは触れないが。

アリス自身は、ピアノの独奏会を100回ぐらい開いたと語っている。レパート リーは多様だが《Appassionata》は重要な作品だった。聴衆(もちろん収容されたユダヤ人)には、ヴィクトール・ウルマン、フロイトの妹、カフカの妹、 ヴィクトール・フランク(「夜と霧」の著者)たちがいた。もちろん監視目的でナチスの兵士はいたが、アリスの演奏に感動し、思わず拍手したとこ ろ、看守の同僚に静止されたというエピソードが残っている。

なおテレジンでの音楽活動としてはハンス・クラーサのオペラ《ブルンジバール》 が特に有名だ。
これまで聴いた音源として手作り感がある、そしてそれがこの作品のリアリティにつながる
Cape Town's Brundibár, Children's Opera by Hans Krasa が気にいっている。



最後の歌を終えたあと、暗転してからの演出も秀逸なのだ。

この公演の最後に、テレジンを生き延びた、そしてテレジンで55回上演された 《ブルンジバール》の全公演で「猫」の役を務めたエラ・ヴァイスベルガーがステージにその姿を見せている。

アリスの息子ラファエル(愛称ラフィ)も「スズメ」の役を演じたこともあるとのこと。
ラフィは音楽的な才能に恵まれ、チェロをポール・トゥルトリエに師事、1963年のミュンヘン国際音楽コンクールでは1位なしの2位を堤剛さんと分け合っている。

1944年10月 16日には、作曲家ヴィクトール・ウルマン、ハンス・クラーサ、ギデオン・クラインそしてラファエル・シャヒター(テレジンでヴェルディの《レクイエム》を 指揮)はみなアウシュヴィッツへ移送され(おそら く18日に)煙となった。一緒に送られた指揮者カレル・アンチェルは、メンゲレの選別をかろうじて潜り抜け助かっている。

奇跡ともいえるだろう。アリスはテレジンを生き延び、その後
1949年にイスラエルへ移住し、ピアニストそして教師として活動する。
   1961年のアイヒマン裁判を傍聴している。
     もしかすると(近年、再評価が進む)ハンナ・アーレントと  
     さらにもしかすると裁判を取材する若き日の作家開高健と出会っていたかもしれない。
1986年、ラフィが住むロンドンへ移り住む。乳がんの手術を受ける。
2001年、チェリストとしてイスラエルを演奏旅行中だったラフィが心臓の病で突然死に見舞われる。
2014年2月23日 没

と、ここまで読んでこられたら、アリスのピアノを聴いてみたくなるはず、私がそうであったように。

シューマン作品集
    アベッグ変奏曲
    謝肉祭
    交響的変奏曲
    
バッハ バルティータ 1番 変ロ長調  BWV 825
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第7番 第2楽章
シューベルト  ピアノ・ソナタ 第21番変ロ長調 第1楽章
ショパン  練習曲 op. 10 から 2、 4、 9
                  op. 25 から 2 、9
スメタナ チェコ舞曲
ドビュッシー 前奏曲 第1巻から 沈める寺 ミンストレル
ドビュッシー  前奏曲 第2巻から ヒースの荒野 奇人ラヴィーヌ将軍
ドビュッシー 前奏曲 第1集から 水に映る影
ドビュッシー 喜びの島

どちらも音質は悪い。だが、そこで聴ける音楽は素晴らしい。

たとえばシューベルトのソナタ。
落ち着きはらったというのとは正反対。絶妙な アゴーギクにより音楽の一拍一拍ごとに心の動き、ざわめき(憧れと いった感情に近い)がある。外の鳥の鳴き声が入ってくるのさえ心地 よいとすら思えるのだ。

1923年(アリスは1903年生まれだからこのとき二十歳)にはチェコ・フィル ハーモニーとショパンのピアノ協奏曲を演奏した記録があるので、優秀なピア ニストであったといえるだろう。

1900年をはさんだ 2つの世代(1890-1910間の生まれ)のユダヤ人
音楽家は、当時の状況の劇的な変化、悪化に----少し前の世代、たとえばオットー・クレンペラー、ブルーノ・ワルターたちはすでに国際的な名声も得ており、亡命する機会も得られたのと比較すると---大きく影響された。もしナチスの台頭が阻止され、第二次世界大戦が起こらなければ、アリスはもっと広く活躍できただろう。


しかし、そいういった想像を絶するような経験をしたにもかかわらず、そして年老いてなお「前向き」であり「音楽への感謝、愛」を持ち続けた、ということに大きな感銘を受ける。

CDの入手には、製作者から直接送ってもらうためにほぼ1年近くを要した。
日本でもっているヒトはいないんじゃない かと、ひそかに思っていたが...今はアリアCDから購入できる。

テレジンをテーマとした"REFUGE IN MUSIC"というDVD(その内容を一部カバーしたCDもDGGからリリース) では、(おそらく)最晩年のアリスの姿が見られる。

DVDのなかで、アンネ= ゾフィー・フォン・オッター(体育会系が多い歌手には珍しく知的な人)がこの企画について、大戦当時、外交官だった父がユダヤ人が虐殺について情報 を得ていたにもかかわらずそれを助けることができなかったことに罪悪感 (guilty)を持ち続けていたと語っており、それがオッターを動かしたと話している。


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