架空庭園の書

音楽への"homage"を主題として、思いつくまま気侭に書き連ねています。ブログ名はアルノルト・シェーンベルクの歌曲から

フェスタサマーミューザ2011の神奈川フィルハーモニー

2011-08-10 | 音楽


8月8日(月)  
テアトロ・ジーリオ・ショウワ  
フェスタサマーミューザ2011  
指揮:金 聖響  
神奈川フィルハーモニー管弦楽団  
  
G.マーラー:交響曲第9番 ニ長調  
  
しばらくぶりの神奈川フィル。  
聴いたのはマーラーの最期の交響曲----一筋縄ではゆかない。聴く方としてもそれなりに構えが必要。
  
シュナイトさんの後任者が作り出す音楽には、何度も肩透かしをくっていた。今回こそと期待したが......  
  
始まって間もなく「やはり」という気持ちがもたげ、それが続く。最終楽章の冒頭で、少し心を動かされはするが、それはこの部分のマーラーの音楽が素晴らしすぎるから。

今日の演奏は、すべて指揮者が求めたもの----マーラーを取り上げたチクルスをやっていて、その成果の一つなのだから---で、聴き終えてみれば、何も残らない(2階あたりからブラヴォーの声もあったが)。

テンポは早め、ダイナミクスの振幅は大きい。管楽器だけのアンサンブル部分においては、とても精妙な響きを聴くことも。オーケストラ全体の機能は、第3楽章においてよく現れていた。拍節感のある(ありすぎる?)その音楽作り----オーケストラにとっては前任者の時よりは演奏し易すように見受けられる----は、この楽章においては演奏の空疎さもあり、まるでショスタコーヴィチのようであった。

全体としては、そういった拍節感のためか、音楽---もう少し具体的に書くならば旋律に伸びがない、柔軟性がない、あるいは硬直している(これらは全部同じこと)。したがって表情の豊かさといったものを感じさせることはない。特に弦セクションはその過剰なまでの頑張りはよしとしても、平面的過ぎた。その一方で、なぜか第2楽章レントラー(風)の主題の初めの部分にだけは、過剰に強調するかのようなアゴーギクが施されている。

  拍節感と表情の豊かさは、相反するものではないのだが。

最後のほうで照明をだんだん落としてゆく演出は、その意図が見えすぎて、わざとらしい印象しか受けなかった。

演奏に真に力が備わっていれば、そのような瞬間は自然に生まれてくるだろうし、そういった性質のものではないのか?

別に名だたる巨匠のような演奏をしてくれとは思わない。現在のありのまま、等身大の音楽で十分に感動できるだろう、多分。しかしそうならない理由はどこに潜んでいるのだろうか?

想像はつくが.....

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2 Comments

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聖響のマーラーというより (yurikamome122)
2011-08-22 17:51:39
ご無沙汰しております。定期演奏会でこの演奏を聴きました。新百合はちょっとアクセスの関係もあったり、そして何より響きの点で私はちょっと敬遠させていただきました。
ところで、一連の聖響さんのマーラーですが、私には彼のマーラーと言うより神奈川フィルの響きをきくマーラーだったように感じました。
彼はまだ若いようです。かつてメータが「巨人」「復活」、3番、5番などで新鮮な、目の覚めるような鮮やかな演奏を聴かせていながら6番以降は成功しなかった、そのことを感じます。
彼のマーラーでは私は2,3,5は若さの勢いが魅力的で大変に楽しめました。6番は震災翌日というあのシュチュエーションでの演奏のため舞台も私もとても平静では聴くことができませんでした。7番は(9番もですが)神奈川フィルの響きの美しさの上で楽しめました。でもおっしゃるようなことはやはり否定はできないでしょうね。LBのような演奏は敬遠しがちの私でもあの演奏は響き以外何があったのかと言われるとやはり困ります。詰まるところ後半になればなるほど彼のマーラーはオケに助けられているように感じました。ただ、私にはヘンテコなササクレ立ったフレージングに蹴たぐるようなバロックティンパニの強打、レーザービームのようなラッパがガンガン鳴る彼の思い通りの古典よりはとても楽しめました。ちなみにCDで出た「復活」は客席で聴いた印象とは似ても似つかない標本のような演奏に修正されてしまいました。全く残念です。
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音楽の外側 (kazumic_garden)
2011-09-05 22:18:41

更新をしばらく放置しており、replyが遅くなりました。

# ブログも再開されていらっしゃいますね

「下手なオーケストラはない、下手な指揮者がいるだけだ」という言葉を信じているのですが、この組み合わせはこれまで3回聴いていて、そのどれもがハズレでこの日は特に違和感が残りました。どうも音楽の外側ばかり気にしているのではないかと。49歳となる作曲者最期の作品を41歳の指揮者が誠実にアプローチするならもっと別のものになったのではと考えます。

それと会場の雰囲気も。周りを見てみると、演奏中はいかにも音楽がつまらない(理解できない?)かのようでパンフレットを退屈そうに読んでいた前列の妙齢のご婦人、演奏中は体を傾けるほど寝ている私の隣のおじさん。不思議なことにご両人とも、演奏が終わると身を起こして拍手をしており、そこにすごい落差があります。なぜか組織票といった言葉も浮かんできます。神奈川フィルの演奏会の雰囲気もどこか変わってしまったなぁと。

「彼の思い通りの古典」はyurikamomeさんらしい秀逸な表現ですね。
このような(無味乾燥とした?)スタイルはもうすでに古びているんじゃないかと。一時はガーディナーやジンマンのベートーヴェンが評判となりましたが。

ミンコフスキーやインマゼールを聴くと、はるかその先の、もっと生気にあふれた音楽をやっていて「後任者」の作る音楽とは別次元だと思えます。

スタイルはまったく異なりますが「前任者」の記憶といくつかの録音を聴くと、今のみなとみらいは遠く感じます。
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