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本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)

2020-06-05 07:14:55 | 古代史
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2019-07-18 23:41:57に掲載した記事を大幅に改訂し、分かり易くしたつもりです。疑問点などございましたらお教えください。どうぞよろしくお願い致します(*^▽^*)

宗像と宇佐の女神(8)~「比咩」は卑弥呼? 
2019・6・12 青松光晴さん@日本古代史つれづれブログ

宇佐神宮ホ-ムページより)

青松様より以下のような疑問点をいただきました(卑弥呼の墓に関する記事にコメントさせていただいたことからやり取りしていただきましたが、都合によりその内容は割愛させていただきました)。

宮ノ原遺跡について調べますと、遺構として、「 貯蔵穴、方形住居、土壙墓、甕棺墓、石棺墓、柱穴」くらいです(全国遺跡報告総覧、奈良文化財研究所)。「宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。」という魏志倭人伝の描く邪馬台国とはほど遠いですね。絹も出土してません。考古学的状況からみて、卑弥呼の居城があった、とはいえないでしょう。
2019-07-17(16:06) : 青松光晴


青松様
いつもながら不躾なコメントに真面目に対応していただき、とてもいい質問を頂きました。こころから感謝いたします。


邪馬台国は、宇佐市安心院町の女王の居城を中心に、宇佐平野、大分平野などを含む周辺地域一帯です。戸数7万戸という「魏志倭人伝」の記述は大国と見せるための誇張ですが、記載されたクニの戸数は相対的にほぼ正しいと思われます。また、邪馬台国までの行程の解釈が混乱していましたが、方角や里程は変えられていますが、直列的に読むのが正解だと分かります。行程記事は、倭国について知識のない魏の朝廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせで書かれていたことも判明しました(詳しくは、正史は正しい歴史なのか?|д゚))。



宮ノ原遺跡の遺構はおっしゃる通り、現在まで特に注目されるような立派なものが発見されていないのは事実ですが、主として卑弥呼の宮室と考えられる三女(サンミョウ)神社から少し離れた、その北側の弥生後期中葉から後半に比定される居住区の一部が試掘されただけで台地全体に広がる遺跡の本格的な発掘はまだです(この居住区は卑弥呼の侍女・らのものと考えられます)。

しかし、神社のすぐ西側にV字溝(幅約2.5m、深さ1m)が見つかっていますし、その中から銅鏃(多分ヤマト勢のもの)も見つかっていますから城柵の一部とみられます。ということは武装した兵士が護る女王の居城である可能性があります。

まだ発見されていませんが、物見やぐらの楼観を作るのなら神社の西側の高台だろうと思います(女王の居城平面図のB地区)。宮室(三女神社)のあるE地区では女王の居住する掘立柱建物の柱跡も見つかると思います。そこを西に下った河原は温泉が湧き出ていますし、現在もそこでスッポンの養殖がおこなわれています。また濁り酒を呑むための土製のおちょこも出土していますから、卑弥呼は毎晩、温泉につかってコラーゲンたっぷりのスッポン料理で舌鼓を打ちながら酒を楽しんでいたのだと想像しています。

また台地上は盆地内と比べて比較的温暖なので生野菜を食べることができたと思います。また川や森の山の幸は勿論、海にも近いので海の幸も味わうことができ、戦乱期の卑弥呼にとっては安全でぜいたくな暮らしができる申し分のない場所だったと思われます(#^.^#)。


宮ノ原遺跡の周辺では石棺群が8か所見つかっています。造成工事中に偶然見つかったもので、ほとんど副葬品などはない状態ですが、大平石棺群(第5石棺群)から最も傑出した遺物が発見されています。



大平石棺群3号石棺の鏡の破片ですが、三角縁神獣鏡ならば年代的にヤマト勢が大国主・台与の倭国を滅ぼした後の、呉が西晋に滅ぼされた280年の直後ではないかと思います。もしもそうであれば大平石棺群は、卑弥呼の死後の第三次倭国大乱後に北部九州を支配した物部氏に従って安心院を占領した将軍一族の古墳である可能性があります。三女神社の伝承では物部支族と思われる水沼氏が三女神を奉祭したとあります(神社の南側の盆地内に水沼社があり、そこで水取していたとの伝承)。宮ノ原台地の遺跡は5世紀ごろまでに生活を別に移していると調査報告書にあります(p.96)。

卑弥呼の石棺は第8石棺群のひとつだと思いますが、残念ながら副葬品など不明です。妻垣神社で改葬した際にすべて移され、さらに宇佐神宮本殿下の亀山で改葬され、副葬品も移されたものと考えています。

多分卑弥呼は絹の着物を着用していたと思われますが、卑弥呼の死と共に散逸した可能性があります。百余人を殉葬させたのは口封じのための大量殺りくだった可能性があります。おそらく相当大量の血が流れたことから、卑弥呼の円墳のある周囲の地名が「血野」と名付けられたものと推測しました(戦国時代に安心院氏が殺害されたとの伝承はありますが血野というからにはもっと大規模ではないかと想像しています)。

そして卑弥呼の墓の決定的な証拠と考えられるのが、「魏志倭人伝」の記述にある径百余歩(直径約150m)の円形墳丘墓を遥拝する位置に建っている同名の三女神社の地名が日食に因む「ヒカケ」だったということです。地名は一番長く残る可能性のある証拠となるものでしょう。第三次倭国大乱を記録したと推理した景行天皇の熊襲征伐の中に記された豊後大野の「血田」という地名も豊後大野市緒方町知田だと突き止めました(^_-)-☆【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)(注3)

すでに、1700年以上もたっていますので、決定的な物証の出土は中々期待できないと思いますが、三女神社とその周辺などを発掘できれば証拠となるものが発見できるかもしれません。


たとえ親魏倭王の金印が安心院盆地周辺以外の別のどこかで見つかったとしても、伊都国男王がそれを持って半島などに逃亡したなどの可能性もありますので、発見された場所を卑弥呼の邪馬台国であると単純に決定づけられないと思います。もしも伊都国周辺や帯方郡址などで見つかれば刮目天の推理を支持するものになります(^_-)-☆

この仮説を検証していく過程で多くの謎が解明できていますので、かなりいい感触を持っています。今後も検証を進めていきますので、疑問点などをお寄せください。長文になって申し訳ありません。どうぞよろしくお願い致します。

【関連記事】

卑弥呼の墓は見つかってるよ!

誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)

誤解と幻想の邪馬台国(´・ω・`)

【付録】最初のご質問と回答をこちらに変更しました。(2020.2.15)
>応神天皇が神武天皇と同一人物との論拠は何でしょうか?。
また住吉大社神代記には、神功皇后と住吉大神が密通したという記載はありますが、応神天皇の父親が狗古智卑狗(大国主命)であるとは書かれてません。論拠は何でしょうか?


まず、共通認識として、一般に正史は「かくあるべし」の理念で編纂される権力者にとって都合の良い歴史でしかなく、不都合な事実は隠ぺいされ、歴史が改ざんされるというのが事実だと理解することが非常に重要です。事実を反映した部分は当然あるでしょうが、それも歪曲されているので、考古学その他の科学的な手法で記述の真偽を推論する作業が必要です。古代の文献は科学論文ではないので、著者・編纂者の隠された作成意図が必ずあり、当然常に正しい内容とは限らないので、真の目的を推理し、記述の真偽を検証することが重要だということです(^_-)-☆

最新の研究では「日本書紀」の真の編纂目的が、645年乙巳の変で中大兄と中臣鎌足がクーデターで蘇我氏の政権を倒したことを正当化し、藤原氏の出自を誤魔化して藤原氏の政権の正統性を主張するためだったと一般に知られるようになりました。多くは関祐二さんの功績ですので、たとえば「新史論 書き替えられた古代史」シリーズ(小学館新書)「古代史 不都合な真実」じっぴコンパクト新書、2018)は読みやすいので、まだでしたら是非どうぞ。関さんから多くのヒントを頂きましたが、出発点の仮説「日本は古の倭の奴国」が異なりますので、検証(推論)と結論は当然違ってきます。( ^)o(^ )

そこで、このご質問への回答はポイントのみですが、以下のとおりです。
(1)ヤマト王権が3世紀後半に成立したことは考古学事実であり、時代の異なる神武天皇は創作だということです(二倍年歴説による年代操作も「日本書紀」自身が否定しています)。ヤマトの大王の出自が北部九州に存在した奴国であることも考古学・民俗学(天皇家や神社祭祀や習俗・風俗など)・言語学や古代文献などが支持しています(特に吉備に特有の特殊器台などが初期ヤマト大王の祭祀に用いられていることから奴国の王族が吉備を経由して河内からヤマトに移ってきたことも分かります)。

(2)日本建国当時の実在のキーパーソンが存在します。「魏志倭人伝」に記載される親魏倭王卑弥呼(発音はヒメゴでヒメミコのこと、固有名詞ではない)、狗奴国の官狗古智卑狗(ククチヒコ)、女王台与(トヨ)、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤記か?)、卑弥呼のあとに立った男王、伊都国男王などです。

(3)中でも最も重要な人物のひとりである卑弥呼は、2世紀初頭まで倭国を支配していた奴国王(「宋史 王年代紀」第18代王素戔嗚尊)を多分殺して倭国を乗っ取った帥升(正しくは師升)の一族と推定される伊都国男王(倭王)と、旧奴国王族との抗争の過程で共立された女王だと推定されます。

ですが、女王の実体は太陽神のお告げを伝えるシャーマンで、男王が実権を持っており、「魏志倭人伝」記載の「男弟」であり、「大率」でもあると考えられます(孫栄健さんも同じ考えですが、男王を難升米だと推理しています。魏の正規軍を示す黄憧が難升米に贈られているので可能性は高いと思います。男王が金印も所持していたのでしょう)。伊都国で当時の硯の欠片も発見され、魏や帯方郡との交易ルートを支配し、華僑と倭人との交易を管理していたものと考えています。

「魏志倭人伝」に書かれた倭国の乱は、旧奴国王族が沖ノ島ルートで半島南部の鉄素材を入手して勢力を盛り返し(弥生後期中葉に日本海沿岸に拡がった大型の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築王墓は首長権が拡大した証拠)、黄巾の乱の前後において後漢朝廷の内部抗争が起こり半島支配が弱まり、混乱したことによって倭王の後ろ盾がなくなったことが背景にある思います。さらに204年公孫氏が帯方郡を設置して半島の交易が安定したので、旧奴国王族へ鉄素材を供給する沖ノ島ルートを支配していた宗像海人族の一部を伊都国男王が懐柔したと考えました。それによって鉄の供給を断たれた旧奴国王族が纏向に集まったと推理しました。狗奴国は女王に逆らう狗ころの奴国と伊都国男王が名付けたものでしょう。

したがって卑弥呼は、当時はまだ戦乱の時代ですから、海に面した物騒な不弥国(ウミコク、宗像付近)から旧奴国王の配下の安曇族が開発した野麻国(ヤマコク、和名抄にある宇佐郡野麻郷が安心院町に比定されている)に疎開していたということです(安心院の地名は院=女王の御心を安んじたという意味。邪馬台はヤマコクに住む女王を意味します)。それが宗像三女神降臨伝承として記紀神話に記されています。

(4)卑弥呼は247年の日食が原因で伊都国男王に暗殺されたと思われます。卑弥呼の死後に王に立たった男王は、記紀の記述から熊襲征伐に北部九州に乗り込んだ仲哀天皇だと関さんは推理しました。仲哀は神のお告げに逆らって突然崩御します。

モガリは神功皇后と常に寄り添っていた武内宿禰が行っていますので、住吉大社の伝承の神功皇后と夫婦の密事を行った住吉大神が武内宿禰であることを示唆します。実際にモガリの場であったという話ではなく、皇后の生んだホムダワケ(応神天皇)の父親が仲哀天皇ではなく本当は武内宿禰だと言うことを暗に暴露したわけです。住吉大神は記紀神話ではスサノヲとなりますが、年代的にはその直系の大国主命(オオナムチ)が該当します。

「魏志倭人伝」にその男王に服さず千人が殺される内乱になったとあるのは、神功皇后と武内宿禰(住吉大神)が仲哀天皇を殺害した事績を指します。その後卑弥呼の宗女台与が女王になりますので、台与が神功皇后に対応し、武内宿禰のモデルが実在の狗古智卑狗に対応します。台与は13才ですので、ホムダワケが誕生したのはその数年後でしょう。仲哀天皇は記紀の記述から考えて実在人物ではなく、創作です。しかし、邪馬台国と対立する狗奴国に比定される纏向遺跡で最も多く出土している外来土器が伊勢・東海のものであることから、仲哀天皇は物部氏と同じ天孫族ニギハヤヒを祖とする尾張氏の王がモデルだと推理しました。

同様に、宗像族の姫台与は近江・越の女王か王女、狗古智卑狗は出雲・丹波王です。そして狗奴国王卑弥弓呼が記紀でハツクニシラススメラミコトのひとりである崇神天皇です。ニギハヤヒこそ、スサノヲの後に奴国大王を継いだ第19代王天照大神尊で、楯築王墓の被葬者だと推理しました。楯築神社の御神体亀石が人面蛇体であることから中国神話の天皇伏義と一致し、倭人が太伯(周王朝の先王古公亶父の長男、周の姫氏は夏王朝の始祖王禹の末裔、禹は伏義の末裔)の後というシナの史書を裏付ける物証になります。崇神天皇は吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王(天照大神尊)の直系の狗奴国王卑弥弓呼がモデルということです。



【参考記事】
狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆
「魏志倭人伝」では狗奴国の官で王よりも先に紹介された実力者でした。大国主でしょう(^_-)-☆

古代史の謎を推理する(^_-)-☆


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