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【検証26】建稲種命の終焉の地は?(@_@)?

2023-09-24 21:46:09 | 古代史
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2023-09-20 21:45:02に記事にしましたが、早くお届けしたい「せっかちな質」なので、毎度、読みにくい文章で申し訳ありません。いつものとおり、掲載後に見直しして、少しだけ文章を付け加えました。お手数ですが、再度お読みいただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします( ^)o(^ )

九州遠征で大国主らを討った尾張王建稲種命は、「空白の150年」に何があったのか?(その6)で見たとおり、東海道を遠征し、大国主傘下の人々を狗奴国に従わせました。纏向遺跡に凱旋して卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)に直接報告していたとしたら、恩賞を貰ってその後も建稲種命が狗奴国ヤマトの政治を仕切っていたと思われますが、その後活躍した話が見当たりません。

愛知県春日井市「内々(うつつ)神社」の由緒によるとに、東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受けた。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりという。とあります。

熱田神宮の社伝でもヤマトタケルの副将として遠征に参加したことになっていますが、前回見たようにヤマトタケルは建稲種命の史実を誤魔化すために「日本書紀」で創作された建国のスーパースターです。また、「吉良の幡頭神社は、矢作川から流れてきた建稲種の遺体を村人が葬って祀ったことが創祀とされ、幡頭は建稲種が水軍の幡頭(はたがしら)をつとめたことから来ているという説がある。」と名古屋神社ガイド タケイナダネ《建稲種命》(2023.4.9)に紹介されています。しかし、建稲種命が駿河の海で水死したということであれば、矢作川から遺体が流れてくるはずもないのでこの伝承の内容そのものには信ぴょう性が無いように思います。何か物証が残っていないか検討しました。遠征軍の大将が戦死したのかは確かではないですが、どこかで亡くなっているとしたら3世紀後半の前方後方墳に葬られているはずですから調べました。この時代の候補は二つあります。(1)長野県松本市弘法山古墳と(2)静岡県沼津市高尾山古墳です。

(1)弘法山古墳 東日本最古級の3世紀末から4世紀中葉頃築造の前方後方墳である。松本市南西部の中山の先端(弘法山、標高約650m)にあり、墳丘長66m、後方部幅33m 、前方部幅22m 、後方部の高さ6m 、前方部の高さ2m 、葺き石が部分的に認められたが埴輪の設置や周濠などは認められなかった。wiki「弘法山古墳」にあります。また、「天井石はない。箱形の木棺に埋葬されていたものとみられる。内部からは「上方作鏡」銘の四獣文鏡1面、銅鏃1、鉄剣3、勾玉、ガラス小玉738、鉄斧1、鉄鏃24、S字状口縁台付甕などが発見された。」とありますからS字甕や銅鏃の副葬から尾張王のものと考えられます。

上記の通り、弘法山は中山の北端にあります(松本市のリーフレット参照)。吉備中山に備前一宮吉備津彦神社と備中一宮吉備津神社が配置され、ニギハヤヒ大王を祀っていることが分かっていますから、ニギハヤヒの子孫の建稲種命を示唆しているようです。この中山には6世紀の古墳が多く営まれており、弘法山の東の棺護山(かごやま)は尾張王の祖神天香語山命を連想します。弘法山と同時期築造の中山36号墳から東海系の土器が出土していますので、これも尾張王族のものと考えられます。『先代旧事本紀』「国造本紀」に須羽国造(すわこくそう)が見られ、「山梨県北杜市に鎮座する諏訪神社中社や『甲斐国史』の伝承では、崇神朝に建沼河別命が西域の地に封ぜられ、その孫の大臣命が諏訪国造に任命されたという。」とwiki「須羽国造」にあります。崇神天皇の伯父大彦命の子建沼河別命は前回述べたとおり建稲種命を隠すために登場させた人物なので、この地は尾張氏が支配下に置いたようです。
 
(2)高尾山古墳 発掘調査報告書に東国最古級の前方後方墳とあり、以下のような概要です。
①愛鷹山末端の標高約20mの尾根上に築造。
②主軸をほぼ北に向ける墳丘長62.178mの前方後方墳、前方部南東側に土橋、南側の周溝が他に比べて狭い。
③主体部は舟形木棺?、棺底に水銀朱。
④主要な副葬品は「上方作系浮彫式獣帯鏡」(破砕鏡)1点、槍2点、鉄鏃32点、鉇1点、勾玉1点。
⑤主体部周辺の墳丘盛土に、パレススタイル壺、S字甕、大廓式土器。
⑥周溝から祭祀に伴う大量の土器。在地の大廓式土器、廻間Ⅱ式高坏、同ヒサゴ壺、同器台、S字甕、北陸系甕など。
⑦造営~埋葬の時期は230年代~250年代。

その他の時期
①前方部に造営直前の弥生時代後期後葉の住居址。
②前方部周溝周辺に律令時代末期の住居址、高台付坏・坏・鉢・甕。


(左クリックでGoogleEarthにジャンプします)

この地区は、狩野川黒瀬橋の袂に関東玉造郷の碑のある玉造神社があり、対岸に玉砥石が展示された一里塚公園があります。さらにその北側には地元で山王さんの名で親しまれている沼津日枝神社があります。主祭神の大山咋神(オオヤマクイ)は相殿に祀られている大国主の分身ですから、弥生後期後葉から大国主の傘下のムナカタ海人族が一帯を治めていたようです。

御幸町遺跡の溝から銅鏃が2個、住居跡から銅鏃4個が見つかっています。高尾山古墳はその北方約3kmくらいの愛鷹山山麓にあります。棺の底に水銀朱が見られるとありますので、尾張王の可能性があります。尾張勢が用いるS字甕が古墳に置かれていることなどからこの地で尾張勢と大国主傘下の在地勢力との戦闘が行われた模様です。

下に北部九州から東北までの土器の編年並行関係を示した図に刮目天の年表を重ねた図を示します。これを見ると東海西部の廻間(はさま)Ⅱ式高坏は240年~280年くらいのものです。そして、東海地方東部の大廓式土器も見られるので(注1)、地元の豪族も葬儀に参加したということを示しますから、建稲種命の率いた尾張勢が敵対していた在地の豪族を平定したことを示しているようです。

なお、高尾山古墳の横に熊野神社(東熊堂)があります。元は古墳上にあったようです。祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊ですから尾張王の祖神ニギハヤヒ大王の両親を祀っています。また、沼津日枝神社の境内に分祠された高尾山穂見神社があり、祭神は保食神(うけもちのかみ)ですから伊勢神宮外宮豊受大神です。その正体は建稲種命に討たれた女王台与です。大国主に次いで各地で卑弥呼とともに畏れられています。藤原氏・中臣氏が創建したと思います。やはり、毒を持って毒を制すの感じですかね(注2)。
 
したがって建国の英雄の尾張王建稲種命は静岡県東部の沼津の地で戦死した模様です。伝承には駿河の海で溺死したとありますが、矢戦をしていますので敵の流れ矢が当たった可能性がありますね。そして高尾山古墳に葬られたと考えることができます(^_-)-☆。

ですから最初の弘法山古墳は、建稲種命がそこで戦死して葬られたわけではないと考えられます。

そして、纏向遺跡の近くの天理市西山古墳が前方後方墳です。物部氏の氏神を祀る石上神宮(いそのかみじんぐう)の南西約500mに在ります。wiki「西山古墳」によれば、墳丘は前方部を西に向けた3段構築の前方後方墳で、全長183メートル、後円部の幅94メートル 高さ16メートル、前方部の幅72メートルですから、日本最大の前方後方墳です
下段が前方後方形で、中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をもつ。
とあり、ヤマト王権のシンボルの前方後円墳を意識していることから建稲種命を建国の功労者として崇神天皇が造らせたのではないかと思います。上で推理したとおり、建稲種命は東国平定の途中で亡くなっていますので、後継者の尾綱根命が父のやり残した仕事を完成させたので、尾張王の継承の儀式も西山古墳で行われたと考えられます。また崇神天皇から恩賞として、諏訪から信濃地方の支配も任されたものと考えられます。したがって弘法山古墳は、尾張王の一族が赴任して、祖神を顕彰し、この地を無事支配できるように加護を祈ったものと考えられます。弘法山古墳の北側には有賀稲荷神社が鎮座していますから、お稲荷さんも女王台与です。そして弘法山の南1kmあたりの中山にはやはり日吉神社がありましたよ(^_-)-☆

(注1)沼津市ホームページの高尾山古墳(たかおさんこふん)の説明によれば、以下のとおりです。
近年改めて墳丘内の盛土構造と土器の出土状況を再検討した結果、墳丘内部で出土する土器は古墳築造前に当該地に存在した集落に伴うものである可能性が高いことが判明し、現在では古墳の築造と被葬者の埋葬年代について時間差はほとんどないものと推定され、古墳の築造時期については被葬者の埋葬時期である大廓Ⅲ式期かその少し前と結論付けられている。
従って下の土器編年並行関係図(東海東部の「大廓Ⅲ式期かその少し前」)と年表から高尾山古墳の築造と埋葬は270年頃と考えられるので建稲種命を被葬者とする本推論を支持しています。

高尾山古墳ガイドブック(PDF:5,094KB)
出土遺物に関する解説動画(沼津市公式YouTubeチャンネル 【完全版】)

【短縮版】約17分に圧縮されていますので、お急ぎの方は取り合えずこちらでどうぞ( ^)o(^ )

(注2)富士市の高尾山穂見神社の祭神は天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)とありましたので、ニニギとコノハナサクヤヒメの子山幸彦なのかも知れません。そうなると保食神(うけもちのかみ)というのは誤魔化すためかも知れません。五穀豊穣、養蚕の神であればホホデミに対応します。そうだとすると、古事記にある天津日高日子とあるので、ヒダカヒコとも呼ばれるならば、「大谷さんは日高見国の王子だったの?!(注5)」で見たように八束水臣津野命の子の天之冬衣命で、大国主の父先代久々遅彦のことだということになりそうです。日枝神社の摂社で祀っているということですね。そうするとやはり対馬市濱殿御子神社に祀られた御祭神が彦火火出見尊と豊玉姫から濱殿はニニギノミコトとも豊玉彦とも取れますね。両者は同一人物なのかも知れません(^_-)-☆


(左クリックで拡大)

鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
2世紀末の倭国大乱や3世紀後半の日本建国の戦いの痕跡を発見していますので、未だの方はぜひご参照ください(;^ω^)


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