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【検証19】日本建国のための戦いだ!

2021-11-17 08:11:44 | 古代史
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2021-07-14 21:35:43に掲載しましたが、日本列島の土器編年併行関係を専門家が作成したものを入手しましたので、それに伴い(注2)に赤字で追加し、関係する図も改訂しました。どうぞよろしくお願いします。


前回の【検証18】倭国大乱の痕跡だ!の最後でお話ししたように、若い倭国王難升米は、半島南部と列島との海運を支配していた北九州のムナカタ海人族を懐柔して旧奴国勢力への鉄の供給ルートを断ち切ることに成功しました。これによって下のような勢力図となり、一気に倭国勢力が優勢になりました。後で示しますが、弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅像の出土状況を調べてみて、畿内とつながりの深い四国の人々も和歌山の人々でさえ最終的に、鉄を倭国側に抑えられたのを見て狗奴国を裏切り、難升米王の傘下に加わったと考えられます(注1)。



狗(旧)奴国勢力は滅亡の危機に見舞われました。第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の跡を継いだ卑弥弓呼(ヒコミコが正しい。魏志倭人伝の誤写と思われる)は、この状況を打開するために列島各地に拡がっている王族や関係の深い人々を一同に集めて相談するために、以前から考えていた三輪山山麓に政治都市(纏向遺跡)を築く決心をしました。吉備よりも畿内に都を遷すと東海・関東などの東国の勢力とも連携しやすいと考えたのでしょう。関裕二さんが指摘したように、纏向は西からの攻撃に対しては生駒山系によって固く守れますし、いざとなったら東の山地を抜けて東国に避難でき、再起を図ることが可能なので、ヤマト勢にとって地政学上最も優れた場所なのです。

【検証11】定説の根拠を疑えでは纏向遺跡と同じ奈良盆地内の拠点集落唐古・鍵遺跡の遺構の変遷を見ました。纏向では三世紀初頭に大溝が掘削されていますので、卑弥呼が女王に共立された後に、祭祀や各地の支配層が住むための掘立柱の大型建物などが急ピッチで建設されたようです。周囲には水田跡は見られませんので、突然現れた巨大な政治都市なのです。食料供給は唐古・鍵遺跡などの奈良盆地の人々が運び込んだようです。

狗奴国王の要請で纏向に集まった人々の出身地は、この頃の纏向遺跡の外来土器を調べると分かります(注2)。下の図から難升米王の支配する邪馬台国連合倭国に加わっている地方の時期的な変遷も推理できます。



最初(旧編年1式)は奈良盆地の人々が約九割です。北部九州の倭国の人々が全くと言っていいほど、来ていないので奈良盆地の人々は北部九州の倭国とは密接な関係でないと分かります。それだけでなく、九州と四国全域と恐らく山口県岩国市付近(卑弥呼に従う玖珂国と比定される)までの中国地方西部は倭国の傘下だと分かります(広島の人々については後でこの時期の鉄鏃・銅鏃の出土状況から狗奴国側だと推理できます)。ですから、魏志倭人伝にある卑弥呼に従う二十一国は上の図のとおりだと推理しました。つまり纏向遺跡は倭国と対立する狗奴国の中心都市だということです。

急に劣勢となった纏向の旧奴国勢力がどのように裏切り者たちに復讐し、倭国の支配を取り戻せるかを、天に占い、軍議に明け暮れていたのだと思います。纏向遺跡で発見された大量の桃のタネは占いに使ったと言われていますが、放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦130~230年とかなり幅があるようです(渡義人、田中祐也「卑弥呼の時代の?桃の種 年代測定、邪馬台国論争に一石」朝日デジタル2018年5月14日 14時49分)。卑弥呼が女王に共立されるのは、公孫氏による204年の帯方郡設置後であることは前回も述べましたので、三世紀初頭から230年くらいの話だと分かります。

旧編年2式になると外来土器が2倍ほどに増えます。210年頃纏向遺跡の最初の大型前方後円墳である石塚古墳が築造されたようです。初代の卑弥弓呼大王が亡くなり、この王墓に葬られたと推理しています。当初から東海の土器が外来土器の半分近く占めていますので、「先代旧事本紀」に依ればニギハヤヒ大王を祖とする尾張氏を中心とする勢力だと推理できます。纏向遺跡に尾張王の勢力がかなり増えたのは、奴国大王の後継者を選ぶ重要なタイミングですので、発言力を大きくするためだと推理できます。

吉備の人々については、ニギハヤヒ大王は楯築王墓に葬られていると推理しましたので、当初は外来土器の2割くらいはあったのですが、それが7%くらいに減っています。その代わりに河内の人々の割合が急に同じ程度増えていますから、先代卑弥弓呼王の一族は吉備から河内に移動し、それから纏向を都にしたのではないかと考えています。河内はニギハヤヒを祖とする物部氏の支配地です。吉備と河内を合わせると人数は同じ程度になりますから。

東海の次に多い山陰・北陸の人々の割合は微増していますが、外来土器の量から、この地方の人々の数は倍増しています。日本海沿岸を活動域とする縄文海人族を束ねるスサノヲ大王の子イタケル直系の王狗古智卑狗(久々遅彦)配下の人々です。北九州のムナカタ族和邇氏とは同族ですが、倭国側についてしまいました(注3)。

それから四国東部(阿波・讃岐)の人々も最初は1割程度来ていました。割合は半減しましたが人数はほぼ同数でしょう。近江の人々も阿波・讃岐と同じくらいの人が来ていたのですが、誰も来なくなっています。初代卑弥弓呼大王の葬儀を欠席しているようですので、倭国側に寝返ったと考えられます。そして播磨・関東・和歌山の人々は、最初は誰も来ていなかったのですが、大王の葬儀のために急きょ出席したのだと推理しています。

次の250年くらいまでの3式の時期には後継者問題と、倭国攻略の作戦が練られた模様です。上述のとおり桃のタネで吉凶を占ったのでしょう。つまり第二次倭国大乱となる倭国追討軍を編成する段階と考えられます。やっと決まった新しい卑弥弓呼大王は纏向に留まり、最大勢力の尾張王が追討軍の首将になったと推理しました。副将に狗古智卑狗(久々遅彦)で一度寝返ったと考えられた近江勢は関係の深いと考えられる狗古智卑狗王か尾張王のどちらかに説得されて、追討軍に参加したと推理しました。その時の状況を表したのが最初の図ですが、そこには「日本書紀」が史実を誤魔化すために登場させた、実在人物をモデルとする人物を記載しています。事績や設定はかなり異なりますが、想像できます。

そして、弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を示したのが、次の図です。上で述べた終末期に起こった第二次倭国大乱と、その後の古墳初頭に起こった第三次大乱の時期のものが同時に表されているはずですが、第二次大乱の実態は、卑弥呼が日食によって倭国難升米王に暗殺されたので、卑弥呼を立てた和邇氏は難升米王を見限り、狗奴国から来た倭国追討軍に抵抗しなかったと推理しています。ですから難升米王は半島に逃亡し、その後に新しい倭国王に立とうとした尾張王と、それに不服だった狗古智卑狗を中心とする山陰・北陸・近江に和邇氏が加勢して内戦状態になったと推理しています。そして狗古智卑狗が魏使張政の進言を受けて近江・北陸の十三才の姫巫女台予を卑弥呼の宗女として表向き、女王に立てて魏を後ろ盾とする倭国王となったと推理しています(詳細は『魏志倭人伝』も『記紀』もフェイクだよに述べています)。つまり、この図に示した倭国勢は大国主狗古智卑狗と女王台予の勢力として表しています。


(左クリックで拡大)

ということですので「日本書紀」に住吉大神(実は大国主狗古智卑狗がモデル)の神託を疑い急に崩御してしまう仲哀天皇(タラシナカツヒコ)は尾張王をモデルにした話だという関裕二説を採用しています。最初の図に示したとおり、武内宿禰と神功皇后とがそれぞれ実在人物の大国主狗古智卑狗と台与をモデルとして創作されたと考えています。そして大国主の先祖の奴国大王スサノヲの恨みを果たした大国主は、スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の直系の子孫の狗奴国王が直接支配する吉備から播磨・河内・奈良と尾張王が支配する領域を除く、列島のほとんどの部分を大国主が支配したことが、この時代の鉄鏃・銅鏃の出土状況の分布から判明しました。

狗奴国側はもう消えてなくなりそうな状況だっと思います。彼らがやれることは、裏切り者の大国主に従う倭国勢の集落に対するテロしかなかったようです。鳥取県の青谷上寺地遺跡はほとんど武装していない民の平和的な集落だったようです。狗奴国王と尾張王は無防備な村を襲い子供や女性などを虐殺したようです。この時代は尾張・大和勢が使用する銅鏃が被害者の骨に刺さった状態で見つかっているので分かりました(詳細は【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?)。兵庫県の函石浜遺跡 では銅族が20個見つかっています。また島根県江津市の波来浜(ならはま)遺跡では墳墓の中から銅鏃が見つかっています。青谷を含む山陰から丹後半島あたりも含む日本海沿岸部では、兵士は鉄鏃、一般の民は狩猟用の骨鏃を使っていると考えられますので銅鏃を使うのは尾張・大和勢のものだと分かります。

また四国では、卑弥呼の時代から倭国側についていた拠点集落付近で銅鏃が見つかっていますから、これらもこの時代のヤマト勢のテロか、次回に詳しく述べる予定ですが、九州全体に送ったヤマト勢の遠征軍の戦いで大国主と台与を殺して、ヤマト軍が勝利した後の戦いかも知れません。

また、和歌山市の紀の川下流域から海南市にかけて、平安時代中期に完成した辞書「和名類聚抄(略称、和妙抄)」によれば、名草郡と呼ばれる地域の集落だった大野中遺跡にヤマト勢の銅鏃が溝で見つかっています。纏向遺跡の外来土器で見たように、この地域の人々は卑弥呼の晩年の頃には狗奴国ヤマトを裏切って倭国側についていることが纏向3式の外来土器では消えていることから分かります。ですからヤマト勢はその報復でテロを行ったと考えられます。

石川県付近では九州の戦いに次いで相当激しい戦闘があったようです。また、東海は元々尾張王の勢力範囲と考えていましたが、大国主が倭国を支配したために、静岡から関東各県、長野などは大国主の倭国側に就いたようですので、そこでもヤマト勢との戦いが見られます。

このように鉄鏃・銅族の出土状況から大国主が倭国を支配した後にヤマト勢が倭国勢を倒して列島を統一した様子が見て取れます。刮目天の仮説を支持するものでした。「日本書紀」景行天皇の九州遠征の話に一致する場所からヤマト勢の銅族や鉄鏃が見つかっています。石川県・静岡県・神奈川県・千葉県・茨城県・岡山県・島根県などの戦いはヤマト政権による日本統一の仕上げの戦いだと考えられます。図に示した通り、「記紀」では日本武尊(ヤマトタケル)の東国遠征や出雲討伐および崇神紀の四道将軍の遠征の話にしているようです。

【関連記事】
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その13)
崇神紀の四道将軍などの話を詳しくしましたので、ご参照ください(2022.7.14)

(注1)女王に属するとして名前だけ挙げられた二十一国の中で、支惟(きゆい)国が最後まで分からなかったのですが、纏向遺跡の外来土器と、ヤマト勢の銅鏃が海南市の大道中遺跡の溝で見つかっているので、決定できました。今回の調査でこの時代の遺跡群が分かりましたので、今後も検討していきますが、ほぼ確定した感じです(*^-^*)

(注2)すでに知られている纏向遺跡の土器編年と暦年代については、石野博信「邪馬台国の考古学」吉川弘文堂2001、p.4の「表1 2-4世紀の纏向様式土器編年と古墳」に述べられています。しかし、刮目天の仮説に従えば旧編年3式は大国主が纏向のヤマトと対立する以前の250年くらいまでで終わり、それ以降は旧編年4式になると考えられます。つまり250年頃から280年頃までの旧4式では、大国主の倭国と敵対関係になりますので、その年代の纏向遺跡では吉備から播磨、河内、尾張までの土器しか見られないはずです。ここがハッキリすると、更にこの時代を推理できます。各地の外来土器の検討は日本建国を解明する上で、重要な要素だと思います。

石野先生の暦年代の起点は卑弥呼の女王共立を范曄後漢書の桓帝末(180年頃)とし、纏向を邪馬台国としているために卑弥呼の後を継いだ台与が纏向から266年に西晋に朝貢したとして箸墓(箸中山)古墳を280年頃と考えて決めた模様です。石野先生は箸墓を台与のものと考えておられるようでその点で刮目天の意見と一致します。

しかし、台与は、270年頃ヤマト勢の攻撃を受けて戦死し、糸島市野平原王墓に葬られましたが、280年の直後に応神天皇が纏向で初代天皇(ヤマトの祭祀王)即位し、母台予を箸墓に改葬したと考えています。ですから、起点は変わっているはずです。纏向遺跡の外来土器の暦年代は新編年に変更された後にどのように分類されるかを再検討する必要があるのではないでしょうか?

今回の検証の結果から、石野先生の旧編年3式の外来土器の大部分が250年以前であると推理しています。250年頃から280年頃までは外来土器がほとんどないのではないかと考えられます。

前回の記事で以上のように記述しましたが、冒頭のとおり、その後、下の編年併行関係が専門家より発表されましたものを入手しましたで、それに基づき歴年代を刮目天の年表に適合させることによって矛盾なく説明できることが確かめられました(「【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」)。それによって上で示した纏向遺跡の外来土器の図も改訂しました。

(注3)大国主神話の因幡の白兎の話だと思います。大国主の父、先代久々遅彦が戦死し、途方に暮れて倭国側に寝返った和邇氏がワニ、ワニを騙して海を渡ろうとし、ワニに気付かれ皮をはがされたのが兎(うさぎ)ということになっています。兎は宇佐(菟狭)の大国主のことです。宇佐市安心院町佐田地区が大国主が最初に国造りした豊葦原瑞穂の国だと推理しています(大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?)。まだ幼かった大国主は父が殺されてしまい、和邇氏に身ぐるみを剥がされて(財産を全て奪われ)追放され、米子を拠点とする同族のムナカタ族に養育されて成人して立派な王になったという話でしょう。だから兎の体にガマの穂を巻いてやって、けがを治したのが米子のムナカタ族と考えられますよ。米子はスサノヲ大王の母イザナミの故郷です。葬られた比婆山もありますよ(^_-)-☆


最後までお付き合い、ありがとうございます。
次回は、最後の第三次倭国大乱の主戦場となった九州での戦いについて詳しく述べる予定です。
分かりにくい箇所についてはご指摘いただけると嬉しいです。
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